「劉義遜」の版間の差分
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北海太守[[孔融]]の配下。『[[三国志]]』魏書[[崔琰]]伝注に引く『九州春秋』にのみ名が見える。 |
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劉義遜は同僚の[[左丞祖]]と共に、孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし孔融は、2人を顧問の座につけるだけで要職につけず、しかも2人とも民からの声望が厚いため、他国に送るわけにはいかないと考えていた。代わりに、過激な議論はするが才能に乏しい王子法、劉孔慈が、孔融の腹心として寵愛された。 |
劉義遜は同僚の[[左丞祖]]と共に、孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし孔融は、2人を顧問の座につけるだけで要職につけず、しかも2人とも民からの声望が厚いため、他国に送るわけにはいかないと考えていた。代わりに、過激な議論はするが才能に乏しい王子法、劉孔慈が、孔融の腹心として寵愛された。 |
2020年8月25日 (火) 11:00時点における版
劉 義遜(りゅう ぎそん、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の政治家。「義遜」は名か字かは不詳である。
事跡
姓名 | 劉義遜 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕
※ただし本文参照 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 太守顧問 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 孔融 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
北海太守孔融の配下。『三国志』魏書崔琰伝注に引く『九州春秋』にのみ名が見える。
劉義遜は同僚の左丞祖と共に、孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし孔融は、2人を顧問の座につけるだけで要職につけず、しかも2人とも民からの声望が厚いため、他国に送るわけにはいかないと考えていた。代わりに、過激な議論はするが才能に乏しい王子法、劉孔慈が、孔融の腹心として寵愛された。
何の展望も策略も無く孤立を保つ孔融を、左丞祖が諌めたが、かえって怒りに触れて誅殺されてしまう。これを見た劉義遜は、失望の余り逃亡した。結局、建安4年(199年)頃になって、孔融は袁紹の子袁譚の攻撃を受けて敗北している。
なお、劉義遜は小説『三国志演義』に登場しない。
参考文献
- 『三国志』魏書12崔琰伝