コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「張温 (孫呉)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 琬琮琯琰瑄を含む記事の改名に伴うリンク修正依頼 (全琮) - log
5行目: 5行目:
呉郡張氏は呉の四姓の一つに数えられ、父も地元で評判の人物であり、[[孫権]]に招かれ東曹掾となったが、早くに死去している。
呉郡張氏は呉の四姓の一つに数えられ、父も地元で評判の人物であり、[[孫権]]に招かれ東曹掾となったが、早くに死去している。


張温は若い頃から行ないが良く、容貌も立派であった。孫権が張温の評判を聞き、その性格を配下に尋ねると、[[劉基 (呉)|劉基]]は「[[全ソウ|全琮]]に肩を並べる人物」といい、また[[顧雍]]は劉基の言葉を否定した上で「肩を並べる人物など見当たらない」と、さらに絶賛した。孫権が彼の父に匹敵する人物と判断し、張温を呼び寄せ語らうと、張温の見事な振る舞いに呉の群臣は揃って感嘆した。このため孫権も態度を改め、鄭重に遇するようになった。[[張昭]]からは特に期待された。
張温は若い頃から行ないが良く、容貌も立派であった。孫権が張温の評判を聞き、その性格を配下に尋ねると、[[劉基 (呉)|劉基]]は「[[全琮]]に肩を並べる人物」といい、また[[顧雍]]は劉基の言葉を否定した上で「肩を並べる人物など見当たらない」と、さらに絶賛した。孫権が彼の父に匹敵する人物と判断し、張温を呼び寄せ語らうと、張温の見事な振る舞いに呉の群臣は揃って感嘆した。このため孫権も態度を改め、鄭重に遇するようになった。[[張昭]]からは特に期待された。


議郎・選曹尚郎となり、[[孫登]]の教育係である[[太子太傅]]を務め、信任を得るようになった。また、太子中庶子の設置を提言している(「孫登伝」)。
議郎・選曹尚郎となり、[[孫登]]の教育係である[[太子太傅]]を務め、信任を得るようになった。また、太子中庶子の設置を提言している(「孫登伝」)。

2020年8月25日 (火) 10:54時点における版

張 温(ちょう おん、193年 - 230年)は、中国三国時代の武将、政治家。恵恕揚州呉郡呉県の人。父は張允(劉表配下の張允ではない)。弟は張祗・張白。姉妹は女子三人(一人は顧承の妻)。『三国志』呉志に伝がある。

生涯

呉郡張氏は呉の四姓の一つに数えられ、父も地元で評判の人物であり、孫権に招かれ東曹掾となったが、早くに死去している。

張温は若い頃から行ないが良く、容貌も立派であった。孫権が張温の評判を聞き、その性格を配下に尋ねると、劉基は「全琮に肩を並べる人物」といい、また顧雍は劉基の言葉を否定した上で「肩を並べる人物など見当たらない」と、さらに絶賛した。孫権が彼の父に匹敵する人物と判断し、張温を呼び寄せ語らうと、張温の見事な振る舞いに呉の群臣は揃って感嘆した。このため孫権も態度を改め、鄭重に遇するようになった。張昭からは特に期待された。

議郎・選曹尚郎となり、孫登の教育係である太子太傅を務め、信任を得るようになった。また、太子中庶子の設置を提言している(「孫登伝」)。

224年、32歳の時に輔義中郎将に任命され、使者として蜀漢へ赴いた。孫権の信頼に応え大任を果たしたため、諸葛亮をはじめ蜀の人々にも賞賛された。この時に蜀の秦宓と問答したという。その後、豫章郡において兵士を募る仕事を任されたが、この頃から孫権に嫉まれるようになった。正史においては、張温が蜀の政治を賛美したことを孫権が不快に思ったことと、孫権が張温の名声の高さを妬んだことが、理由として挙げられている。実は張温は帰国すると、殷礼の任官など他の人事のいくつかについても難癖をつけた。張温がかつて選曹郎に抜擢した人物に曁艶という者がいた。後に曁艶は尚書となったが、選曹郎の徐彪とともに人事で専断的な行動が目立ったため、呉の人々の恨みを買い失脚し自殺に追い込まれていた。正史によると、孫権はこの事件を利用して、曁艶の専横は張温であると決め付けた(実際、孫邵は張温と曁艶に讒言され辞意を表明したが、孫権の許しにより復職した(「呉主伝」))。また、張温の豫章郡での仕事振りにも難癖をつけ、の侵攻があったときに山越の討伐に失敗したと責めた。駱統は張温のために理を尽くして弁護したが、孫権に容れられることはなかった。

結局張温は左遷された上で呉郡に戻され、6年後に病死してしまった。弟二人は官職を没収され、また姉妹も皆離別させられて、奴婢に落されることになった。『文士伝』によると、顧承の妻となっていた妹は許されて再嫁することになったが、自害したという。

『会稽典録』によると、余姚県の虞俊は張温の失脚を予見していた。諸葛亮は張温の失脚を当初信じられなかったが、報せが届いた後しばらく考えた上で、その理由を悟ったという。

後に『呉書』を編纂した韋昭は張温と親しい関係であったという(「呉主伝」が引く『志林伝』)。