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=== 演義の「袁術の息子」 === |
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なお小説『[[三国志演義]]』では、袁術が帝位を僭称した際、自分の息子を皇太子として立てようとした。[[呂布]]の娘の婚約相手として、袁術の子も外交交渉の場で言及されている。しかし名前が不詳であり、袁燿に該当するかは不明。この袁術の子は袁術が死去すると、袁胤らとともに[[徐 |
なお小説『[[三国志演義]]』では、袁術が帝位を僭称した際、自分の息子を皇太子として立てようとした。[[呂布]]の娘の婚約相手として、袁術の子も外交交渉の場で言及されている。しかし名前が不詳であり、袁燿に該当するかは不明。この袁術の子は袁術が死去すると、袁胤らとともに[[徐璆]]によって殺される設定になっている。 |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2020年8月25日 (火) 05:17時点における版
袁燿 | |
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呉 郎中 | |
出生 |
生年不詳 豫州汝南郡汝陽県 |
拼音 | Yuán Yào |
主君 | 袁術→孫策→孫権 |
袁 燿(えん よう、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の人物。豫州汝南郡汝陽県(現在の河南省周口市商水県)の人。父は袁術。
人物
事績
建安4年(199年)、父が死亡して一族は没落した。袁燿は一族の袁胤らに守られ、かつて袁術配下だった劉勲の下へ逃れた。その後、劉勲を撃破した孫策に捕らえられてしまう。しかし後年、自分の姉妹である袁夫人が孫権の後宮に入ったため、袁燿自身も郎中に任ぜられた。また、袁燿の娘は孫権の子孫奮の室となった。これ以上の詳細な記述は、史書に見当たらない。
演義の「袁術の息子」
なお小説『三国志演義』では、袁術が帝位を僭称した際、自分の息子を皇太子として立てようとした。呂布の娘の婚約相手として、袁術の子も外交交渉の場で言及されている。しかし名前が不詳であり、袁燿に該当するかは不明。この袁術の子は袁術が死去すると、袁胤らとともに徐璆によって殺される設定になっている。