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'''稲田 敏植'''(いなだ としたね、[[明和]]4年([[1767年]]) - [[文化 (元号)|文化]]8年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[1811年]][[8月17日]]))は、[[徳島藩]]筆頭家老。[[淡路国|淡路]][[洲本城]]代稲田家11代当主。
'''稲田 敏植'''(いなだ としたね、[[明和]]4年([[1767年]]) - [[文化 (元号)|文化]]8年[[6月29日 (旧暦)|6月29日]]([[1811年]][[8月17日]]))は、[[徳島藩]]筆頭家老。[[淡路国|淡路]][[洲本城]]代稲田家11代当主。


正室は[[市橋長てる|市橋長璉]]の娘。継室は[[高辻福長]]の娘。子に[[稲田植封]]、[[稲田芸植]]、[[稲田植美]]、[[紀州藩]]家老[[水野正純]]室。通称は九郎兵衛。
正室は[[市橋長璉]]の娘。継室は[[高辻福長]]の娘。子に[[稲田植封]]、[[稲田芸植]]、[[稲田植美]]、[[紀州藩]]家老[[水野正純]]室。通称は九郎兵衛。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
明和4年(1767年)、蜂須賀家家老[[稲田植樹]]の子として生まれる。[[安永]]6年([[1777年]])父の死去により家督相続し、[[洲本城]]代となる。
明和4年(1767年)、蜂須賀家家老[[稲田植樹]]の子として生まれる。[[安永]]6年([[1777年]])父の死去により家督相続し、[[洲本城]]代となる。


[[寛政]]元年([[1789年]])、[[仁正寺藩]]主[[市橋長てる|市橋長璉]]の娘と結婚する。同年、[[江戸幕府|幕府]][[巡見使]]を洲本に迎える。[[天明]]5年([[1785年]])、稲田家学問所を別邸内に移転して益習館と名称を改め、家臣子弟の学問を興隆させた。益習館では、[[儒学]]者の[[篠崎三島]]、[[篠崎小竹]]親子が講義を行い、幕末に勤皇の志士を輩出する。継室に[[中納言]][[高辻福長]]の娘を迎え、朝廷との関係が深まったことも、稲田家が幕末に独自に勤皇の道を歩む一因となる。文化8年(1811年)6月29日死去。家督は嫡男の植封が相続した。
[[寛政]]元年([[1789年]])、[[仁正寺藩]]主[[市橋長璉]]の娘と結婚する。同年、[[江戸幕府|幕府]][[巡見使]]を洲本に迎える。[[天明]]5年([[1785年]])、稲田家学問所を別邸内に移転して益習館と名称を改め、家臣子弟の学問を興隆させた。益習館では、[[儒学]]者の[[篠崎三島]]、[[篠崎小竹]]親子が講義を行い、幕末に勤皇の志士を輩出する。継室に[[中納言]][[高辻福長]]の娘を迎え、朝廷との関係が深まったことも、稲田家が幕末に独自に勤皇の道を歩む一因となる。文化8年(1811年)6月29日死去。家督は嫡男の植封が相続した。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2020年8月25日 (火) 05:10時点における版

稲田 敏植(いなだ としたね、明和4年(1767年) - 文化8年6月29日1811年8月17日))は、徳島藩筆頭家老。淡路洲本城代稲田家11代当主。

正室は市橋長璉の娘。継室は高辻福長の娘。子に稲田植封稲田芸植稲田植美紀州藩家老水野正純室。通称は九郎兵衛。

生涯

明和4年(1767年)、蜂須賀家家老稲田植樹の子として生まれる。安永6年(1777年)父の死去により家督相続し、洲本城代となる。

寛政元年(1789年)、仁正寺藩市橋長璉の娘と結婚する。同年、幕府巡見使を洲本に迎える。天明5年(1785年)、稲田家学問所を別邸内に移転して益習館と名称を改め、家臣子弟の学問を興隆させた。益習館では、儒学者の篠崎三島篠崎小竹親子が講義を行い、幕末に勤皇の志士を輩出する。継室に中納言高辻福長の娘を迎え、朝廷との関係が深まったことも、稲田家が幕末に独自に勤皇の道を歩む一因となる。文化8年(1811年)6月29日死去。家督は嫡男の植封が相続した。

参考文献