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'''市橋 長昭'''(いちはし ながあき、[[安永]]2年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[1773年]][[5月27日]]) - [[文化 (元号)|文化]]11年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[1814年]][[11月8日]]))は、[[近江国|近江]][[仁正寺藩]]の第7代藩主。号は格斎、比君軒、黄雪園などを用いた。仁正寺藩市橋家8代。 |
'''市橋 長昭'''(いちはし ながあき、[[安永]]2年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[1773年]][[5月27日]]) - [[文化 (元号)|文化]]11年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[1814年]][[11月8日]]))は、[[近江国|近江]][[仁正寺藩]]の第7代藩主。号は格斎、比君軒、黄雪園などを用いた。仁正寺藩市橋家8代。 |
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第6代藩主・[[市橋長璉]]の長男。母は[[松浦誠信]]の娘。正室は酒井忠順([[出羽国]][[庄内藩]]主[[酒井忠温 (庄内藩主)|酒井忠温]]の次男)の娘。側室に夏原氏、斎藤氏など。子に[[市橋長発]](次男)、[[市橋長基]](三男、[[市橋長格]]養子)、娘([[藤波光忠]]室)。官位は従五位下、[[下総国|下総]]守。 |
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2020年8月25日 (火) 05:09時点における版
市橋 長昭(いちはし ながあき、安永2年4月7日(1773年5月27日) - 文化11年9月27日(1814年11月8日))は、近江仁正寺藩の第7代藩主。号は格斎、比君軒、黄雪園などを用いた。仁正寺藩市橋家8代。
第6代藩主・市橋長璉の長男。母は松浦誠信の娘。正室は酒井忠順(出羽国庄内藩主酒井忠温の次男)の娘。側室に夏原氏、斎藤氏など。子に市橋長発(次男)、市橋長基(三男、市橋長格養子)、娘(藤波光忠室)。官位は従五位下、下総守。
生涯
江戸神田の藩邸で生まれる。幼名は韶之助。天明5年(1785年)12月7日、父の死去により跡を継いだ。寛政2年(1790年)5月15日、将軍徳川家斉にお目見えする。同年12月7日、従五位下下総守に叙任する。寛政8年7月8日、大番頭に就任する。文化元年(1804年)3月24日、奏者番に就任する。文化4年10月16日、辞職する。
幼少期から聡明で学問を好んだことから、藩主になると藩校・日新館を創設して文武を奨励した。また、西生懐忠に命じて「蒲生旧址考」を編纂させ、さらに砲術の訓練から武術・柔術・馬術・剣術などの武道も広く奨励するなどした[1]。このため、仁正寺藩の中興の英主といわれている。また、文化5年(1808年)に湯島聖堂に宋元版の書物30種を献上する[2]など、学問の振興に志があることで知られ、毛利高標、池田定常(松平冠山)ら同時代の英主達と並び、寛政期における好学の三大名と称された[3]。交流があった学者として、大典禅師・佐藤一斎・林述斎などがあげられる[4]。
文化11年(1814年)9月27日、42歳で死去し、跡を長男の長発が継いだ。法号は泰雲院文翁竜章大居士。墓所は東京都荒川区西日暮里の南泉寺。
参考文献
- 高瀬代次郎『佐藤一斎と其門人』
- 中川泉三『蒲生郡志』