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中央に召し返されると[[執金吾]]になった。[[建衡]]元年([[269年]])、[[陸凱]]は亡くなる間際に「滕脩らは皆、清廉忠実・卓越秀才であり、社稷の根幹、国家の善き補佐であります。陛下は彼らにお訊ねになり、忠義を尽くせるようお取り計らい下さいますよう」と陳情している。またその際に、国の支えとなる人物の一人として滕脩の名を挙げている<ref>[[姚信]]・[[楼玄]]・[[賀邵]]・[[張悌]]・[[郭逴]]・[[薛瑩]]・'''滕脩'''・[[陸喜]]・[[陸抗]]</ref><ref>『三国志』呉志 陸凱伝</ref>。 |
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[[天紀]]3年([[279年]])、広州で[[郭馬]]らが反乱を起こすと、孫晧はかねてより滕脩の威光恩恵が民たちを心服させていると信じていたため、滕脩を使持節・[[都督]]広州諸軍事・鎮南将軍・広州牧に任じて討伐を命じ、後に[[陶璜]]・[[陶濬]]らを援軍として差し向けた。 |
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郭馬の反乱を平定していない内に[[呉の滅亡 (三国)|晋が攻め込んで来た]]ので、滕脩は兵を率い応戦しようと駆けつけたが、巴丘まで赴いたところで孫晧が既に降服したことを知ったため、喪服を着た上で涙を流しながら引き返した。広州刺史閭豊・[[蒼梧郡|蒼梧]][[太守]]王毅とともに印綬を返上すると、詔勅により安南将軍に任じられた。広州牧・持節・都督の職階はそのまま留任とされ、武当侯に封ぜられた上で鼓吹を与えられて、南方の仕事を委任された。 |
郭馬の反乱を平定していない内に[[呉の滅亡 (三国)|晋が攻め込んで来た]]ので、滕脩は兵を率い応戦しようと駆けつけたが、巴丘まで赴いたところで孫晧が既に降服したことを知ったため、喪服を着た上で涙を流しながら引き返した。広州刺史閭豊・[[蒼梧郡|蒼梧]][[太守]]王毅とともに印綬を返上すると、詔勅により安南将軍に任じられた。広州牧・持節・都督の職階はそのまま留任とされ、武当侯に封ぜられた上で鼓吹を与えられて、南方の仕事を委任された。 |
2020年8月25日 (火) 05:05時点における版
滕 脩(とう しゅう、? - 288年)は、中国三国時代の呉から西晋にかけての政治家・武将。字は顕先。別名は滕循。荊州南陽郡西鄂県の人。子は滕並。
生涯
呉に仕えて将帥となり西鄂侯に封ぜられた。
孫晧の時代には熊睦の後任として広州刺史となり、甚だ威光恩恵を示した。滕脩が広州刺史になった時、ある人が一丈もの長さの鬚を持つ蝦がいると語ったが、滕脩は信用できなかった。その人が後に徐州の東海郡へと出かけ、長さ四丈四尺の蝦を捕まえ滕脩の元に送ると、滕脩はやっと納得したという[1]。
中央に召し返されると執金吾になった。建衡元年(269年)、陸凱は亡くなる間際に「滕脩らは皆、清廉忠実・卓越秀才であり、社稷の根幹、国家の善き補佐であります。陛下は彼らにお訊ねになり、忠義を尽くせるようお取り計らい下さいますよう」と陳情している。またその際に、国の支えとなる人物の一人として滕脩の名を挙げている[2][3]。
天紀3年(279年)、広州で郭馬らが反乱を起こすと、孫晧はかねてより滕脩の威光恩恵が民たちを心服させていると信じていたため、滕脩を使持節・都督広州諸軍事・鎮南将軍・広州牧に任じて討伐を命じ、後に陶璜・陶濬らを援軍として差し向けた。
郭馬の反乱を平定していない内に晋が攻め込んで来たので、滕脩は兵を率い応戦しようと駆けつけたが、巴丘まで赴いたところで孫晧が既に降服したことを知ったため、喪服を着た上で涙を流しながら引き返した。広州刺史閭豊・蒼梧太守王毅とともに印綬を返上すると、詔勅により安南将軍に任じられた。広州牧・持節・都督の職階はそのまま留任とされ、武当侯に封ぜられた上で鼓吹を与えられて、南方の仕事を委任された。
滕脩が南方にあること数年、辺境の夷狄たちも帰服した。太康9年(288年)に死去した。親族が洛陽に埋葬して欲しいと請願したことから、武帝はその気持ちに満悦して一頃の墓田を与え、声侯と諡した。後に子の上表により、忠侯と改められた。
家系図
滕脩 | 滕並 | 滕含 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
滕遯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
滕恬之[ft 1] | 滕羨[ft 2] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||