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[[呉 (三国)|呉]]の[[諸葛恪]]が合肥に攻め、新城の各部も呉軍によって相次いで陥落され、城落しそうだ。張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守れば、その将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた<ref>「百日守れば罪を問わない」仕来たりそのものは事実で、[[271年]]に呉の[[陶璜]]らが[[西晋]]の[[楊稷]]らを攻めた時、楊稷らの事情を汲んで、百日以内の降伏の使者を断り、籠城側の不足した分の食料を城内に届けたりもしながら籠城を続けさせ、百日経った後に降伏させている。</ref>。このため諸葛恪はこれを信じ、城への攻撃を中止した。 |
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ところが張特は、その間に密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めたものの、呉軍内部で疫病が流行り始めたため、陥落させられずに撤退することとなった。魏軍の追撃を受ける呉軍は、兵の半分が病気に罹ったりあるいは戦死した。 |
ところが張特は、その間に密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めたものの、呉軍内部で疫病が流行り始めたため、陥落させられずに撤退することとなった。魏軍の追撃を受ける呉軍は、兵の半分が病気に罹ったりあるいは戦死した。 |
2020年8月25日 (火) 05:04時点における版
張 特(ちょう とく、生没年不詳)は、中国三国時代の魏の武将。字は子産。幽州涿郡の人。
経歴
曹叡(明帝)の時代から魏に仕えて牙門将軍に任じられた。後に合肥新城の守将に任じられた。
呉の諸葛恪が合肥に攻め、新城の各部も呉軍によって相次いで陥落され、城落しそうだ。張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守れば、その将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた[1]。このため諸葛恪はこれを信じ、城への攻撃を中止した。
ところが張特は、その間に密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。諸葛恪はこれに激怒して城を攻めたものの、呉軍内部で疫病が流行り始めたため、陥落させられずに撤退することとなった。魏軍の追撃を受ける呉軍は、兵の半分が病気に罹ったりあるいは戦死した。
この功績により張特は雑号将軍となり、列侯に封じられた上で、安豊太守となった。