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== 生涯・人物 ==
== 生涯・人物 ==
[[興福寺]]に住して[[法相宗#教義|法相教学]]を学び、[[733年]]に出家者に正式な戒を授けるための[[伝戒師]]を招請するため、[[普照]]とともに第十次遣唐使船で難波津を出航し[[唐]]へ渡った<ref name=鳥越>{{Cite book|和書|author=鳥越泰義|authorlink=川合康三|title=正倉院薬物の世界 日本の薬の源流を探る|origdate=2005-10-11|edition=初版|publisher=平凡社|page=125|isbn=4-582-85296-3}}</ref>。唐では[[洛陽]]の大福先寺で「三師七証」の儀式で[[具足戒]]を受け、大福先寺にいた僧[[道セン|道璿]]に来日を要請した<ref name=鳥越></ref>。唐にとどまること10年目にして[[揚州市|揚州]][[大明寺 (揚州市)|大明寺]]の[[鑑真|鑑眞]]に拝謁し、改めて日本へ渡ることを要請した。鑑眞は渡航することを決意し、数次にわたり渡航を決行したが失敗し、6度目にしてようやく日本へ渡ることができた。しかし、この間に榮叡は、[[749年]]に病を得て[[端州]]龍興寺で死去した。苦楽を共にした普照とは親友同士であり、榮叡の最期を看取ったのも普照である。榮叡が亡くなった際に、普照は我を忘れて号泣したと伝わる。
[[興福寺]]に住して[[法相宗#教義|法相教学]]を学び、[[733年]]に出家者に正式な戒を授けるための[[伝戒師]]を招請するため、[[普照]]とともに第十次遣唐使船で難波津を出航し[[唐]]へ渡った<ref name=鳥越>{{Cite book|和書|author=鳥越泰義|authorlink=川合康三|title=正倉院薬物の世界 日本の薬の源流を探る|origdate=2005-10-11|edition=初版|publisher=平凡社|page=125|isbn=4-582-85296-3}}</ref>。唐では[[洛陽]]の大福先寺で「三師七証」の儀式で[[具足戒]]を受け、大福先寺にいた僧[[道璿]]に来日を要請した<ref name=鳥越></ref>。唐にとどまること10年目にして[[揚州市|揚州]][[大明寺 (揚州市)|大明寺]]の[[鑑真|鑑眞]]に拝謁し、改めて日本へ渡ることを要請した。鑑眞は渡航することを決意し、数次にわたり渡航を決行したが失敗し、6度目にしてようやく日本へ渡ることができた。しかし、この間に榮叡は、[[749年]]に病を得て[[端州]]龍興寺で死去した。苦楽を共にした普照とは親友同士であり、榮叡の最期を看取ったのも普照である。榮叡が亡くなった際に、普照は我を忘れて号泣したと伝わる。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2020年8月25日 (火) 01:09時点における版

榮叡(ようえい、生年未詳 - 749年)は、奈良時代法相宗[1][2]美濃国の出身。

生涯・人物

興福寺に住して法相教学を学び、733年に出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を招請するため、普照とともに第十次遣唐使船で難波津を出航しへ渡った[3]。唐では洛陽の大福先寺で「三師七証」の儀式で具足戒を受け、大福先寺にいた僧道璿に来日を要請した[3]。唐にとどまること10年目にして揚州大明寺鑑眞に拝謁し、改めて日本へ渡ることを要請した。鑑眞は渡航することを決意し、数次にわたり渡航を決行したが失敗し、6度目にしてようやく日本へ渡ることができた。しかし、この間に榮叡は、749年に病を得て端州龍興寺で死去した。苦楽を共にした普照とは親友同士であり、榮叡の最期を看取ったのも普照である。榮叡が亡くなった際に、普照は我を忘れて号泣したと伝わる。

関連項目

脚注

  1. ^ 第2版,世界大百科事典内言及, デジタル版 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典. “栄叡(ようえい)とは”. コトバンク. 2019年3月17日閲覧。
  2. ^ 岐阜県仏教会HP 栄叡大師”. bukkyogifu.net. 2019年3月17日閲覧。
  3. ^ a b 鳥越泰義『正倉院薬物の世界 日本の薬の源流を探る』(初版)平凡社(原著2005年10月11日)、125頁。ISBN 4-582-85296-3 

外部リンク