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== 人物・生涯 ==
== 人物・生涯 ==
当初[[興福寺]]に住し、[[天平]]5年([[733年]])に出家者に正しい[[戒]]を授けるための[[伝戒師]]を招請するため[[栄叡]]とともに[[唐]]に渡った。[[洛陽]]大福先寺で[[具足戒]]を授けられ、[[道セン|道璿]]に来日を促した。唐に滞在すること10年目にして[[揚州市|揚州]][[大明寺 (揚州市)|大明寺]]の[[鑑真]]に拝謁して日本への渡航を要請し、[[天平勝宝]]6年([[754年]])、鑑真に従って日本へ戻った後、[[東大寺]]に住し、[[天平宝字]]3年([[759年]])には旅をする人の飢えを癒すため京外の街道に果樹を植えることを奏上した。苦楽を共にした栄叡とは親友同士であり、栄叡を看取ったのも普照である。栄叡が亡くなった時酷く号泣したと伝わる。その後、奈良[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]の[[大鎮]]を務めた。没年は不明。
当初[[興福寺]]に住し、[[天平]]5年([[733年]])に出家者に正しい[[戒]]を授けるための[[伝戒師]]を招請するため[[栄叡]]とともに[[唐]]に渡った。[[洛陽]]大福先寺で[[具足戒]]を授けられ、[[道璿]]に来日を促した。唐に滞在すること10年目にして[[揚州市|揚州]][[大明寺 (揚州市)|大明寺]]の[[鑑真]]に拝謁して日本への渡航を要請し、[[天平勝宝]]6年([[754年]])、鑑真に従って日本へ戻った後、[[東大寺]]に住し、[[天平宝字]]3年([[759年]])には旅をする人の飢えを癒すため京外の街道に果樹を植えることを奏上した。苦楽を共にした栄叡とは親友同士であり、栄叡を看取ったのも普照である。栄叡が亡くなった時酷く号泣したと伝わる。その後、奈良[[西大寺 (奈良市)|西大寺]]の[[大鎮]]を務めた。没年は不明。


なお、[[平間寺]]の第31世貫主を「'''普照'''」という僧が務めているが、活動した時代が全く異なり、別人である。
なお、[[平間寺]]の第31世貫主を「'''普照'''」という僧が務めているが、活動した時代が全く異なり、別人である。

2020年8月25日 (火) 01:09時点における版

普照(ふしょう、生没年不詳)は、奈良時代。母は白猪与呂志(しらいのよろし)の娘。

人物・生涯

当初興福寺に住し、天平5年(733年)に出家者に正しいを授けるための伝戒師を招請するため栄叡とともにに渡った。洛陽大福先寺で具足戒を授けられ、道璿に来日を促した。唐に滞在すること10年目にして揚州大明寺鑑真に拝謁して日本への渡航を要請し、天平勝宝6年(754年)、鑑真に従って日本へ戻った後、東大寺に住し、天平宝字3年(759年)には旅をする人の飢えを癒すため京外の街道に果樹を植えることを奏上した。苦楽を共にした栄叡とは親友同士であり、栄叡を看取ったのも普照である。栄叡が亡くなった時酷く号泣したと伝わる。その後、奈良西大寺大鎮を務めた。没年は不明。

なお、平間寺の第31世貫主を「普照」という僧が務めているが、活動した時代が全く異なり、別人である。

関連項目