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'''行表'''(ぎょうひょう、[[養老]]6年([[722年]]) - [[延暦]]16年2月([[797年]]))は[[奈良時代]]の[[僧]]。[[大和国]][[葛上郡]]高宮郷の出身。父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。
'''行表'''(ぎょうひょう、[[養老]]6年([[722年]]) - [[延暦]]16年2月([[797年]]))は[[奈良時代]]の[[僧]]。[[大和国]][[葛上郡]]高宮郷の出身。父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。


[[741年]]([[天平]]13年)[[恭仁宮]]で[[道セン|道璿]]に師事して[[得度]]し、[[743年]](天平15年)[[興福寺]]北倉院で受戒。興福寺で[[禅]]・[[唯識]]を学ぶ。その後、[[近江国]][[崇福寺 (大津市)|崇福寺]]の寺主となり1丈余りの[[千手観音菩薩]]を造り、次いで近江国の大国師となった。[[778年]]([[宝亀]]9年)[[最澄]]の師となり、[[780年]](宝亀11年)師主として最澄を得度させている。後[[奈良]][[大安寺]]に移った。
[[741年]]([[天平]]13年)[[恭仁宮]]で[[道璿]]に師事して[[得度]]し、[[743年]](天平15年)[[興福寺]]北倉院で受戒。興福寺で[[禅]]・[[唯識]]を学ぶ。その後、[[近江国]][[崇福寺 (大津市)|崇福寺]]の寺主となり1丈余りの[[千手観音菩薩]]を造り、次いで近江国の大国師となった。[[778年]]([[宝亀]]9年)[[最澄]]の師となり、[[780年]](宝亀11年)師主として最澄を得度させている。後[[奈良]][[大安寺]]に移った。


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2020年8月25日 (火) 01:09時点における版

行表(ぎょうひょう、養老6年(722年) - 延暦16年2月(797年))は奈良時代大和国葛上郡高宮郷の出身。父は檜前(ひのくま)調使案麻呂。俗名は百戸。

741年天平13年)恭仁宮道璿に師事して得度し、743年(天平15年)興福寺北倉院で受戒。興福寺で唯識を学ぶ。その後、近江国崇福寺の寺主となり1丈余りの千手観音菩薩を造り、次いで近江国の大国師となった。778年宝亀9年)最澄の師となり、780年(宝亀11年)師主として最澄を得度させている。後奈良大安寺に移った。