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北斉の国子博士の[[孫霊暉]]の子として生まれた。14歳のとき、阜城の熊安生に[[五経]]を学び、概略をつかんで、諸子や史書を渉猟した。文章を得意とし、談論が美しかったため、博陵の[[李徳林]]に認められた。17歳のとき、北斉の奉朝請に任じられた。また[[陽休之]]の下で開府行参軍をつとめた。 |
北斉の国子博士の[[孫霊暉]]の子として生まれた。14歳のとき、阜城の熊安生に[[五経]]を学び、概略をつかんで、諸子や史書を渉猟した。文章を得意とし、談論が美しかったため、博陵の[[李徳林]]に認められた。17歳のとき、北斉の奉朝請に任じられた。また[[陽休之]]の下で開府行参軍をつとめた。 |
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隋が建国されると、滕王[[楊瓚]]に召されてその文学となったが、衣冠の整わなかった罪で、江南に流されて防人の任についた。行軍総管の[[宇文述]]に召されてその軍の書簡をつかさどった。書生気質の万寿は、軍の麾下にあっては面白くなく、その心うちを「遠戍江南寄京師親友」の五言詩にしたためて[[長安]]の友人に送ると、その詩は当時に流行して多く壁書された。 |
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後に郷里に帰って、十数年にわたって任用されなかった。[[601年]]([[仁寿 (隋)|仁寿]]元年)、豫章王[[楊カン|楊暕]]に召されてその長史となった。[[604年]](仁寿4年)、楊暕が斉王に転封されると、斉王文学となった。当時、諸王の属官は族滅されるものが多かったため、万寿は不安にかられて、病にかこつけて辞職した。長らくして大理司直に任じられ、在官のまま死去した。享年は52。『文集』10巻があって当時に通行した。 |
後に郷里に帰って、十数年にわたって任用されなかった。[[601年]]([[仁寿 (隋)|仁寿]]元年)、豫章王[[楊カン|楊暕]]に召されてその長史となった。[[604年]](仁寿4年)、楊暕が斉王に転封されると、斉王文学となった。当時、諸王の属官は族滅されるものが多かったため、万寿は不安にかられて、病にかこつけて辞職した。長らくして大理司直に任じられ、在官のまま死去した。享年は52。『文集』10巻があって当時に通行した。 |
2020年8月25日 (火) 01:07時点における版
孫 万寿(孫萬壽、そん ばんじゅ、生没年不詳)は、北斉から隋にかけての文学者。字は仙期。またの字は遐年。本貫は信都郡武強県。
経歴
北斉の国子博士の孫霊暉の子として生まれた。14歳のとき、阜城の熊安生に五経を学び、概略をつかんで、諸子や史書を渉猟した。文章を得意とし、談論が美しかったため、博陵の李徳林に認められた。17歳のとき、北斉の奉朝請に任じられた。また陽休之の下で開府行参軍をつとめた。
隋が建国されると、滕王楊瓚に召されてその文学となったが、衣冠の整わなかった罪で、江南に流されて防人の任についた。行軍総管の宇文述に召されてその軍の書簡をつかさどった。書生気質の万寿は、軍の麾下にあっては面白くなく、その心うちを「遠戍江南寄京師親友」の五言詩にしたためて長安の友人に送ると、その詩は当時に流行して多く壁書された。
後に郷里に帰って、十数年にわたって任用されなかった。601年(仁寿元年)、豫章王楊暕に召されてその長史となった。604年(仁寿4年)、楊暕が斉王に転封されると、斉王文学となった。当時、諸王の属官は族滅されるものが多かったため、万寿は不安にかられて、病にかこつけて辞職した。長らくして大理司直に任じられ、在官のまま死去した。享年は52。『文集』10巻があって当時に通行した。