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2020年8月25日 (火) 01:07時点における版
楊 忠(よう ちゅう、507年 - 568年)は、中国の西魏・北周の軍人。隋の文帝楊堅の父。小名は奴奴。本貫は弘農郡華陰県。
経歴
北魏の建遠将軍の楊禎と蓋氏のあいだの子として生まれた。成長すると容貌魁偉で、髭が美しく、身長は七尺八寸、武芸に優れた。524年、泰山に遊山して、南朝梁の侵攻を受けて捕らえられ、江南に抑留された。529年、北海王元顥に従って洛陽に入り、直閤将軍に任ぜられた。元顥が敗れると、爾朱度律に召されて帳下統軍となった。530年、爾朱兆が并州から洛陽に入ると、楊忠は爾朱兆につき、昌県伯の爵位を受け、都督に任ぜられ、また小黄県伯の別封を受けた。独孤信の下で下溠戍に梁を撃破し、南陽を平定するのに、功績を挙げた。
534年、孝武帝が関中に入るのに従い、爵位は侯に進んだ。宇文泰の下で潼関を攻撃し、回洛城を落とした。安西将軍・銀青光禄大夫に任ぜられた。東魏の荊州刺史の辛纂が穣城に拠ると、楊忠は独孤信の下で辛纂を討ち、穣城に入城した。駐屯すること半年、東魏の圧迫を受けて、独孤信とともに梁に亡命した。梁の武帝の厚遇を受けて、文徳主帥・関外侯となった。
537年、独孤信とともに西魏に帰還した。宇文泰の下で龍門での狩猟に参加したとき、楊忠は一匹の猛獣と対峙し、左脇で獣の腰をはさみ、右手で獣の舌を引き抜いてみせた。宇文泰の賞賛を受け、北族の語で猛獣を意味する「揜于」を字とした。宇文泰の下で竇泰を討ち、沙苑で戦った。征西将軍・金紫光禄大夫に転じ、爵位は襄城県公に進んだ。538年、河橋の戦いでは、楊忠は壮士5人とともに奮戦して橋を守り抜いた。功績により左光禄大夫・雲州刺史に任ぜられ、大都督を兼ねた。また李遠とともに黒水稽胡を撃破し、怡峯とともに玉壁の包囲を解き、洛州刺史に転じた。543年、邙山の戦いでは、先頭に立って東魏軍と戦った。大都督に任ぜられ、車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍に進んだ。まもなく都督朔燕顕蔚四州諸軍事・朔州刺史に任ぜられ、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司の位を加えられた。549年、東魏が潁川を包囲し、田柱清が乱を起こすと、楊忠は兵を率いて乱を平定した。
侯景が長江を渡り、梁の武帝が敗れると、梁の西義陽郡太守の馬伯符らが下溠城をもって西魏に降伏した。西魏はこれに対応して、漢水・沔水流域を経略するため、楊忠を都督三荊二襄二広南雍平信隨江二郢析十五州諸軍事として、穣城に駐屯させた。馬伯符を案内として、梁の斉興郡と昌州を攻撃し、ともに落とした。梁の岳陽王蕭詧が西魏に藩属したが、二心をもっていた。楊忠は樊城から漢浜へと進軍して、旗を立てて示威した。楊忠の兵は実際には2000騎であったが、蕭詧が楼に登って楊忠の軍を眺めると3万騎にも見え、恐れて服従した。
梁の司州刺史の柳仲礼が長史の馬岫に安陸を守らせ、自身は1万の兵を率いて襄陽を攻撃した。竟陵郡太守の孫暠が大都督の符貴を捕らえて柳仲礼に降った。柳仲礼は部将の王叔孫を派遣して孫暠とともに竟陵を守らせた。楊忠は宇文泰の命を受けて梁の隨郡を攻略し、守将の桓和を捕らえた。さらに進軍して安陸を包囲した。柳仲礼は安陸を守りきれないと考え、援軍におもむいた。楊忠は騎兵2000を選び、馬にハミを噛ませて夜間に進軍し、柳仲礼を淙頭で奇襲した。楊忠は柳仲礼を捕らえ、馬岫を安陸で降した。王叔孫が孫暠を斬って竟陵をもって降った。梁の元帝は子の蕭方略を人質として和睦を申し入れ、西魏は石城を南限とし、梁は安陸を北界として国境線を定めた。凱旋すると、楊忠の爵位は陳留郡公に進んだ。
551年、梁の元帝がその兄の邵陵王蕭綸を圧迫した。蕭綸は羊思達・段珍宝・夏侯珍らとともに北斉と通じて汝南城に入った。梁の元帝がこのことを宇文泰に知らせると、宇文泰は楊忠に命じて蕭綸を討たせた。楊忠は蕭綸を捕らえ、その罪を数えて殺した。かつて楊忠は柳仲礼を捕らえて厚遇していたが、柳仲礼が長安に入ると楊忠が軍中で財宝を横領していると訴えた。宇文泰は楊忠の歴年の功績を思って、不問に付した。楊忠は怒り、柳仲礼を殺さなかったことを後悔した。蕭綸を殺害したのは、このことがあったためである。楊忠は年をはさんで漢水の東の地域を平定した。
554年、普六茹氏[1]の姓を賜り、行同州事をつとめた。于謹が江陵を攻撃すると、楊忠は前軍をつとめ、江津に駐屯し、梁軍の逃走路を抑えた。梁軍は象の鼻に刃を束ねて戦いを挑んできたが、楊忠が象を射ると、象兵は敗走していった。江陵が平定されると、西魏は蕭詧を梁主に立て、楊忠は穣城に駐屯してこれを支援した。
557年、北周の孝閔帝が即位すると、楊忠は入朝して小宗伯となった。北斉が東の国境を侵すと、楊忠は蒲坂に駐屯した。司馬消難が北周への帰順を願い出ると、楊忠は達奚武とともにこれを支援した。二将は5000騎を率いて、間道を通って北斉領内深く侵入した。北豫州まで30里、達奚武は異変を疑って、軍を返そうと考えた。楊忠は「進んで死あるも、退いての生はなし」と言ってひとり夜間に城下まで進み、開門を求めた。門が開かれて楊忠は入城し、また達奚武を招き入れた。北斉の鎮城の伏敬遠が兵士2000人を率いて東陴に拠り、厳戒を布いていた。達奚武は城を維持しようとせず、多くの財貨を取り、司馬消難らを連れて先に帰国しようとした。楊忠は3000騎を率いてしんがりをつとめたが、北斉の軍が追ってきて、洛北までやってきた。北斉軍が洛水を渡ろうとしたところ、楊忠がこれを迎撃すると、北斉軍はあえて迫ろうとせず、おもむろに引き返していった。楊忠の位は柱国大将軍に進んだ。559年、随国公に封ぜられた。
562年、大司空に転じた。北周の朝廷は突厥と連合して北斉を討つことを議論したが、北斉の将軍の斛律光を恐れて消極的な意見が多かった。楊忠はひとり積極策を唱えた。563年、楊忠は元帥となり、楊纂・李穆・王傑・爾朱敏・元寿・田弘・慕容延ら十数人の将軍を部下として東征の軍を発した。また達奚武には3万の兵を率いて南道を進ませ、晋陽での合流を期した。楊忠は爾朱敏を什賁にとどめて、黄河の上の遊兵とした。楊忠は武川鎮に進出して、かつての邸宅に入り、先祖を祭り、将士に饗応した。北斉軍は陘嶺の隘路を守ったので、楊忠は奇兵を繰り出してこれを破った。また楊纂を霊丘に駐屯させて後方の備えとした。突厥の木汗可汗が地頭可汗や歩離可汗らとともに、10万騎を率いて来援した。564年1月、晋陽を攻撃した。大雪が数十日続き、寒風は厳しく、北斉軍はその精鋭を繰り出したので、突厥は恐れて上西山に引きこもって戦おうとしなかった。楊忠は「趨勢は天にあって、兵数の多寡にはない」と言って700人を率いて徒歩で戦い、死者が10人中4、5におよぶ激戦をおこなった。達奚武が後詰めに現れると、兵を返したが、このため北斉軍はあえて出戦しようとしなくなった。突厥は兵を出して大規模な略奪をおこない、晋陽から平城にいたる700里あまりは人間も家畜も残らなかった。楊忠は武帝により太傅に任じられた。楊忠は宇文護につかなかったため、都督涇豳霊雲塩顕六州諸軍事・涇州刺史に任じられて遠ざけられた。
この年、北周軍が北斉を攻撃すると、宇文護は洛陽方面に進出し、楊忠は沃野鎮に出て突厥と連合しようとした。軍の食糧が不足していたので、一計を案じて稽胡の首領たちを招いた。そこに王傑が軍容を整え、鼓を鳴らしてやってきた。楊忠が怪しんだふりをして訊ねると、王傑は「大冢宰(宇文護)がすでに洛陽を平定しましたので、天子は銀州と夏州の間の生胡の騒動を聞かれて、王傑めを公につけて討たせようというのです」と答えた。また突厥の使者が馳せ参じて、「可汗は并州に入り、兵馬十数万を長城の下に留めております。ゆえに公にお訊ねしますが、もし稽胡が服従しないのであれば、公と共同してこれを破りたいと思います」と言った。列席した者たちはみな驚愕したので、楊忠はかれらを慰めさとした。このため稽胡の首領たちは命令に従って食糧を輸送した。このときの東征は、宇文護が先に撤退すると、楊忠も撤兵した。
568年、楊忠は病のため長安に帰った。武帝と宇文護の見舞いをたびたび受けた。まもなく62歳で死去した。太保・同朔等十三州諸軍事・同州刺史の位を追贈された。諡は桓といった。子の楊堅が後を嗣いだ。
隋朝の成立後、太祖武元帝の諡号が追贈された。
妻子
妻
- 呂苦桃(元明皇后)