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後漢の[[青州]][[刺史]]。[[袁紹]]を中心とする反董卓連合に加わった諸侯の一人であるが、[[曹操]]が[[董卓]]軍の[[徐栄]]に敗れたことを知ると[[青州]]へ逃げ帰った。政治的に無能であったため青州の混乱を招き、それに対し何も現実的な対策を講ぜぬまま、[[初平]]年間に没した。この無策さが後年の青州に大きな影響を及ぼすことになる。 |
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彼の死後、後継の刺史として袁紹が臧洪を送り込み、州内の治安を回復させたものの、[[公孫瓚]]が[[田楷]]を送り込んだため、北海[[太守]]であった[[孔融]]も袁紹に敵対的な姿勢をとるようになり、青州は戦乱や[[黄巾賊]]の残党で再び荒廃することになった。曹操の支配地となった後も、海賊の管承の反乱が勃発している。 |
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2020年8月25日 (火) 01:05時点における版
焦和(しょう か、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。『三国志』魏書臧洪伝に記述がある。
後漢の青州刺史。袁紹を中心とする反董卓連合に加わった諸侯の一人であるが、曹操が董卓軍の徐栄に敗れたことを知ると青州へ逃げ帰った。政治的に無能であったため青州の混乱を招き、それに対し何も現実的な対策を講ぜぬまま、初平年間に没した。この無策さが後年の青州に大きな影響を及ぼすことになる。
彼の死後、後継の刺史として袁紹が臧洪を送り込み、州内の治安を回復させたものの、公孫瓚が田楷を送り込んだため、北海太守であった孔融も袁紹に敵対的な姿勢をとるようになり、青州は戦乱や黄巾賊の残党で再び荒廃することになった。曹操の支配地となった後も、海賊の管承の反乱が勃発している。