コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「孫軽」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
軽快 (会話 | 投稿記録)
m divタグに変更するべき案件でしたorz
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 瓚璿璩璨の改名に伴うリンク修正依頼 (公孫瓚) - log
30行目: 30行目:
| 〔不詳〕
| 〔不詳〕
|}
|}
黒山賊の[[張燕]]が、常山・趙郡・中山・[[上党郡|上党]]・[[河内郡 (河南省)|河内]]の諸山谷の独立勢力と連携した際、その中の一勢力の指導者だった孫軽は、王当と共に張燕配下となり、黒山軍の結成に加わった。以後、黒山軍は[[河北]]で一大勢力を形成するようになった。その後、張燕は[[公孫サン|公孫瓚]]と連合し、配下の将軍である杜長を派遣するなどして[[袁紹]]に対抗した。しかし敗北により、黒山軍は追い詰められるようになっていった。[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])、[[曹操]]軍の[[張遼]]が趙国と常山を攻略すると、孫軽にも招請がきたため、孫軽は他の黒山軍や独立勢力と共に張遼に降伏した。これ以降、史書に記述が見当たらない。
黒山賊の[[張燕]]が、常山・趙郡・中山・[[上党郡|上党]]・[[河内郡 (河南省)|河内]]の諸山谷の独立勢力と連携した際、その中の一勢力の指導者だった孫軽は、王当と共に張燕配下となり、黒山軍の結成に加わった。以後、黒山軍は[[河北]]で一大勢力を形成するようになった。その後、張燕は[[公孫瓚]]と連合し、配下の将軍である杜長を派遣するなどして[[袁紹]]に対抗した。しかし敗北により、黒山軍は追い詰められるようになっていった。[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])、[[曹操]]軍の[[張遼]]が趙国と常山を攻略すると、孫軽にも招請がきたため、孫軽は他の黒山軍や独立勢力と共に張遼に降伏した。これ以降、史書に記述が見当たらない。


なお孫軽は、張燕配下の黒山軍の中では、名前が史書に残されている数少ない人物の1人であり、王当・杜長と共に張燕の有力な腹心だったことが窺える(黒山軍の有力部将としては、他に[[スイ固|眭固]]・[[于毒]]がいるが、彼らは張燕の指揮下にあったとは言い難い)。
なお孫軽は、張燕配下の黒山軍の中では、名前が史書に残されている数少ない人物の1人であり、王当・杜長と共に張燕の有力な腹心だったことが窺える(黒山軍の有力部将としては、他に[[スイ固|眭固]]・[[于毒]]がいるが、彼らは張燕の指揮下にあったとは言い難い)。

2020年8月25日 (火) 01:03時点における版

孫 軽(そん けい、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の人物。常山に割拠していた黒山軍(黒山賊)の武将の一人。

事跡

姓名 孫軽
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 〔黒山軍部将〕→〔不詳〕
爵位 -
主君 張燕曹操
家族・一族 〔不詳〕

黒山賊の張燕が、常山・趙郡・中山・上党河内の諸山谷の独立勢力と連携した際、その中の一勢力の指導者だった孫軽は、王当と共に張燕配下となり、黒山軍の結成に加わった。以後、黒山軍は河北で一大勢力を形成するようになった。その後、張燕は公孫瓚と連合し、配下の将軍である杜長を派遣するなどして袁紹に対抗した。しかし敗北により、黒山軍は追い詰められるようになっていった。建安9年(204年)、曹操軍の張遼が趙国と常山を攻略すると、孫軽にも招請がきたため、孫軽は他の黒山軍や独立勢力と共に張遼に降伏した。これ以降、史書に記述が見当たらない。

なお孫軽は、張燕配下の黒山軍の中では、名前が史書に残されている数少ない人物の1人であり、王当・杜長と共に張燕の有力な腹心だったことが窺える(黒山軍の有力部将としては、他に眭固于毒がいるが、彼らは張燕の指揮下にあったとは言い難い)。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献

  • 三国志』魏書8張燕伝
  • 同魏書17張遼伝