「左丞祖」の版間の差分
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左丞祖は謀に長じおり、同僚の[[劉義遜]]と共に孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし、孔融は2人を顧問の座に就けるだけで、要職に就けようとしなかった。その一方で民からの声望が厚かったため、2人を他国に送る訳にはいかないとも考えていた。代わりに、過激な議論はするが才能に乏しかった王子法・劉孔慈が、孔融の腹心として寵愛されている。 |
左丞祖は謀に長じおり、同僚の[[劉義遜]]と共に孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし、孔融は2人を顧問の座に就けるだけで、要職に就けようとしなかった。その一方で民からの声望が厚かったため、2人を他国に送る訳にはいかないとも考えていた。代わりに、過激な議論はするが才能に乏しかった王子法・劉孔慈が、孔融の腹心として寵愛されている。 |
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当時、孔融は[[青州]]の弱小勢力で、[[曹操]]・[[袁紹]]・[[公孫瓚]]といった強豪に囲まれていた。しかし孔融は誰とも同盟しようとせず、加えて何の展望・策略も無かった。そこで左丞祖は「強国を後ろ盾にすべきである」と孔融に進言した。しかし孔融は、曹操・袁紹が漢王室を滅ぼそうと企む人物であると見ていたため、怒って左丞祖を処刑してしまった。 |
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これを見た劉義遜は、失望の余り逃亡した。結局、[[建安 (漢)|建安]]4年([[199年]])頃になって、孔融は袁紹の子[[袁譚]]の攻撃を受け敗北している。 |
これを見た劉義遜は、失望の余り逃亡した。結局、[[建安 (漢)|建安]]4年([[199年]])頃になって、孔融は袁紹の子[[袁譚]]の攻撃を受け敗北している。 |
2020年8月25日 (火) 01:03時点における版
左 丞祖(さ じょうそ、? - 192年)は、中国後漢時代末期の政治家。名の表記については、盧弼の『三国志集解』注によれば諸説ある(「左承祖」あるいは「左丞〔官名〕黄祖〔劉表配下とは別人〕」ではないかとの説がある)。多数説(ちくま学芸文庫和訳もこれをとっている)は「左丞祖〔姓が左〕」であるため、本記事はこれをとる。この場合でも、「丞祖」は名か字かという問題が残るが、不詳である。
事跡
姓名 | 左丞祖 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | ? - 初平3年(192年) |
字・別号 | 〔不詳〕
※ただし本文参照 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 太守顧問 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 孔融 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
孔融配下。『後漢書』孔融伝・『三国志』魏書崔琰伝注に引く『九州春秋』に名が見える。
左丞祖は謀に長じおり、同僚の劉義遜と共に孔融配下では清廉な俊才との評判があった。しかし、孔融は2人を顧問の座に就けるだけで、要職に就けようとしなかった。その一方で民からの声望が厚かったため、2人を他国に送る訳にはいかないとも考えていた。代わりに、過激な議論はするが才能に乏しかった王子法・劉孔慈が、孔融の腹心として寵愛されている。
当時、孔融は青州の弱小勢力で、曹操・袁紹・公孫瓚といった強豪に囲まれていた。しかし孔融は誰とも同盟しようとせず、加えて何の展望・策略も無かった。そこで左丞祖は「強国を後ろ盾にすべきである」と孔融に進言した。しかし孔融は、曹操・袁紹が漢王室を滅ぼそうと企む人物であると見ていたため、怒って左丞祖を処刑してしまった。
これを見た劉義遜は、失望の余り逃亡した。結局、建安4年(199年)頃になって、孔融は袁紹の子袁譚の攻撃を受け敗北している。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。