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== 事績 ==
== 事績 ==
[[公孫サン|公孫瓚]]配下の長史。元は[[酷吏]](厳罰主義の官吏)であり、上官に対し謙尊するばかりで雄大な計略の無い人物だった。このため、小人を信用するとの評があった公孫瓚には寵愛された。
[[公孫瓚]]配下の長史。元は[[酷吏]](厳罰主義の官吏)であり、上官に対し謙尊するばかりで雄大な計略の無い人物だった。このため、小人を信用するとの評があった公孫瓚には寵愛された。


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[[建安 (漢)|建安]]3年([[198年]])、[[袁紹]]が公孫瓚に対して総攻撃を開始すると、公孫瓚は[[張燕]]に援軍を求めると同時に自ら城外に出撃することで袁紹軍の背後を突こうとしたが、関靖は物量や兵力の差を考えて易京に立て篭もる慎重策を進言し、公孫瓚に受け入れられた。なお[[南宋]]時代の史家[[胡三省]]は、公孫瓚の作戦が正解であったのに、関靖のせいで敗北することになったと指摘している。

2020年8月25日 (火) 01:00時点における版

関靖
後漢
前将軍長史
出生 生年不詳
并州太原郡
死去 建安4年(199年
冀州河間国易県易京
拼音 Guān Jìng
士起
主君 公孫瓚
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関 靖(かん せい、? - 199年)は、中国後漢時代末期の政治家、軍人。士起并州太原郡の人。

事績

公孫瓚配下の長史。元は酷吏(厳罰主義の官吏)であり、上官に対し謙尊するばかりで雄大な計略の無い人物だった。このため、小人を信用するとの評があった公孫瓚には寵愛された。

建安3年(198年)、袁紹が公孫瓚に対して総攻撃を開始すると、公孫瓚は張燕に援軍を求めると同時に自ら城外に出撃することで袁紹軍の背後を突こうとしたが、関靖は物量や兵力の差を考えて易京に立て篭もる慎重策を進言し、公孫瓚に受け入れられた。なお南宋時代の史家胡三省は、公孫瓚の作戦が正解であったのに、関靖のせいで敗北することになったと指摘している。

翌4年(199年)、袁紹軍は地下道を掘って易京を陥落させ、ついに公孫瓚を滅ぼした。主君の敗北を知った関靖は、自分の進言が敗因となった事を嘆き、敵陣に突撃して主君と運命を共にした。関靖の首級は、袁紹の命によりへ送り届けられたという。

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

参考文献

  • 後漢書』列伝63公孫瓚伝
  • 三国志』魏書8公孫瓚伝
  • 盧弼『三国志集解』(古籍出版社、1957年)