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以降、顧琛は劉義康の下で司徒録事参軍となり、[[紹興市|山陰県]]令に転じ、また司徒録事参軍となり、少府に転じた。[[438年]](元嘉15年)、義興郡太守として出向した。[[442年]](元嘉19年)、東陽郡太守に転じた。また劉義康の下で軍務をつとめるよう求められたが、固辞したために免官されて年を重ねた。 |
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[[450年]](元嘉27年)、[[北魏]]の[[太武帝]]の率いる大軍が瓜歩まで南進してくると、顧琛は仮の建威将軍となって魏軍と戦った。まもなく東海王[[劉禕 (南朝宋)|劉禕]]の下で冠軍司馬となり、[[会稽郡]]の事務を代行した。隨王[[劉誕 (南朝宋)|劉誕]]が劉禕に代わって会稽郡[[太守]]となると、顧琛は劉誕の下で安東司馬をつとめた。[[453年]](元嘉30年)、[[劉劭 (南朝宋)|劉劭]]が文帝を殺害して帝を称すると、会稽郡など5郡を分けて[[会州]]を置き、劉誕が会州刺史に任用されたため、顧琛は会稽郡太守となり、五品将軍の号を受けた。劉誕が[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]について起兵すると、顧琛もこれに従って冠軍将軍の号を加えられた。劉劭の乱が平定されると、顧琛は[[呉興郡]]太守に転じた。[[454年]]([[孝建]]元年)、[[建康 (都城)|建康]]に召還されて五兵尚書となったが、就任しないうちにまた寧朔将軍・呉郡太守として出された。孝武帝に従った功績で、永新県五等侯に封じられた。[[457年]]([[大明]]元年)、呉県令の張闓の非礼を擁護した発言で孝武帝の怒りを買い、免官されて家に帰り、老母を養った。 |
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[[459年]](大明3年)、竟陵王劉誕が広陵で反乱を起こすと、陸延稔を顧琛のもとに派遣して征南将軍とした。しかし顧琛は陸延稔を斬ってその首級を孝武帝のもとに届けた。西陽王[[劉子尚]]の下で撫軍司馬となり、そのまま呉興郡太守をつとめた。[[460年]](大明4年)、呉興郡の民の多くが銭の私改鋳を行っていた罪に連座して、免官された。[[462年]](大明6年)、大司農として再び起用された。都官尚書に転じた。新安王[[劉子鸞]]の下で北中郎司馬・[[東海郡]]太守となり、[[南徐州]]の事務を代行した。劉子鸞が撫軍将軍に転じると、顧琛はこれに従って東海郡太守のまま撫軍司馬となった。[[464年]](大明8年)、[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]が即位すると、再び呉郡太守となった。[[466年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年)、晋安王[[劉子クン|劉子勛]]らの反乱に参加したが、敗れて母を連れて会稽に逃れた。[[明帝 (南朝宋)|明帝]]側の官軍がやってくると、降伏した。顧琛の子の顧宝素はこのとき自殺した。まもなく顧琛の母の孔氏が百数歳で死去した。喪が明けると、顧琛は員外常侍・中散大夫として起用された。[[475年]]([[元徽]]3年)、死去した。享年は86。 |
[[459年]](大明3年)、竟陵王劉誕が広陵で反乱を起こすと、陸延稔を顧琛のもとに派遣して征南将軍とした。しかし顧琛は陸延稔を斬ってその首級を孝武帝のもとに届けた。西陽王[[劉子尚]]の下で撫軍司馬となり、そのまま呉興郡太守をつとめた。[[460年]](大明4年)、呉興郡の民の多くが銭の私改鋳を行っていた罪に連座して、免官された。[[462年]](大明6年)、大司農として再び起用された。都官尚書に転じた。新安王[[劉子鸞]]の下で北中郎司馬・[[東海郡]]太守となり、[[南徐州]]の事務を代行した。劉子鸞が撫軍将軍に転じると、顧琛はこれに従って東海郡太守のまま撫軍司馬となった。[[464年]](大明8年)、[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]が即位すると、再び呉郡太守となった。[[466年]]([[泰始 (南朝宋)|泰始]]2年)、晋安王[[劉子クン|劉子勛]]らの反乱に参加したが、敗れて母を連れて会稽に逃れた。[[明帝 (南朝宋)|明帝]]側の官軍がやってくると、降伏した。顧琛の子の顧宝素はこのとき自殺した。まもなく顧琛の母の孔氏が百数歳で死去した。喪が明けると、顧琛は員外常侍・中散大夫として起用された。[[475年]]([[元徽]]3年)、死去した。享年は86。 |
2020年8月22日 (土) 22:12時点における版
顧 琛(こ ちん/こ しん、390年 - 475年)は、南朝宋の官僚。字は弘瑋。本貫は呉郡呉県。
経歴
顧惔(顧和の子の顧履之の子)と孔氏のあいだの子として生まれた。揚州従事を初任とし、駙馬都尉・奉朝請となった。423年(景平元年)、大匠丞に任じられた。彭城王劉義康の下で右軍参軍となった。424年(元嘉元年)、劉義康が驃騎将軍となると、顧琛は驃騎参軍に転じ、晋陵県令をつとめた。429年(元嘉6年)、劉義康が司徒となると、顧琛はその下で司徒参軍となった。尚書庫部郎に転じ、呉郡中正を兼ねた。430年(元嘉7年)の到彦之の北伐の失敗により、宋軍は多くの兵器を遺棄し、武庫は空になっていた。ときに文帝が国外から帰化した人々の列席する宴会を開いた。文帝は「庫中にはどのくらいの武器があるのか」と訊ねた。文帝は問いを発してから失言を悔いたが、顧琛がとっさに「10万人分の武器があります」と偽って答えたため、文帝は顧琛の機知を喜んだ。
以降、顧琛は劉義康の下で司徒録事参軍となり、山陰県令に転じ、また司徒録事参軍となり、少府に転じた。438年(元嘉15年)、義興郡太守として出向した。442年(元嘉19年)、東陽郡太守に転じた。また劉義康の下で軍務をつとめるよう求められたが、固辞したために免官されて年を重ねた。
450年(元嘉27年)、北魏の太武帝の率いる大軍が瓜歩まで南進してくると、顧琛は仮の建威将軍となって魏軍と戦った。まもなく東海王劉禕の下で冠軍司馬となり、会稽郡の事務を代行した。隨王劉誕が劉禕に代わって会稽郡太守となると、顧琛は劉誕の下で安東司馬をつとめた。453年(元嘉30年)、劉劭が文帝を殺害して帝を称すると、会稽郡など5郡を分けて会州を置き、劉誕が会州刺史に任用されたため、顧琛は会稽郡太守となり、五品将軍の号を受けた。劉誕が孝武帝について起兵すると、顧琛もこれに従って冠軍将軍の号を加えられた。劉劭の乱が平定されると、顧琛は呉興郡太守に転じた。454年(孝建元年)、建康に召還されて五兵尚書となったが、就任しないうちにまた寧朔将軍・呉郡太守として出された。孝武帝に従った功績で、永新県五等侯に封じられた。457年(大明元年)、呉県令の張闓の非礼を擁護した発言で孝武帝の怒りを買い、免官されて家に帰り、老母を養った。
459年(大明3年)、竟陵王劉誕が広陵で反乱を起こすと、陸延稔を顧琛のもとに派遣して征南将軍とした。しかし顧琛は陸延稔を斬ってその首級を孝武帝のもとに届けた。西陽王劉子尚の下で撫軍司馬となり、そのまま呉興郡太守をつとめた。460年(大明4年)、呉興郡の民の多くが銭の私改鋳を行っていた罪に連座して、免官された。462年(大明6年)、大司農として再び起用された。都官尚書に転じた。新安王劉子鸞の下で北中郎司馬・東海郡太守となり、南徐州の事務を代行した。劉子鸞が撫軍将軍に転じると、顧琛はこれに従って東海郡太守のまま撫軍司馬となった。464年(大明8年)、前廃帝が即位すると、再び呉郡太守となった。466年(泰始2年)、晋安王劉子勛らの反乱に参加したが、敗れて母を連れて会稽に逃れた。明帝側の官軍がやってくると、降伏した。顧琛の子の顧宝素はこのとき自殺した。まもなく顧琛の母の孔氏が百数歳で死去した。喪が明けると、顧琛は員外常侍・中散大夫として起用された。475年(元徽3年)、死去した。享年は86。
子女
- 顧宝素(尚書郎)
- 顧宝先(司空参軍、尚書水部郎)