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[[1912年]]9月2日、[[黄海道]][[長淵郡]]蒪澤面に生まれる。父は西海盧氏の[[盧啓一]]、母は義城金氏の[[金鴻基]]、3人姉妹の次女。盧啓一は村の小地主で船関係の商売もしていたため、家は裕福な方であった。盧は生まれたとき、基善と名づけられたが、5歳のときに[[麻疹]]にかかり、危うく命を落としそうになる。この一件の後、天命と名を改めた。[[1920年]]、盧が9歳のとき、父が亡くなると、母方の実家があるソウルに移り住んだ。
[[1912年]]9月2日、[[黄海道]][[長淵郡]]蒪澤面に生まれる。父は西海盧氏の[[盧啓一]]、母は義城金氏の[[金鴻基]]、3人姉妹の次女。盧啓一は村の小地主で船関係の商売もしていたため、家は裕福な方であった。盧は生まれたとき、基善と名づけられたが、5歳のときに[[麻疹]]にかかり、危うく命を落としそうになる。この一件の後、天命と名を改めた。[[1920年]]、盧が9歳のとき、父が亡くなると、母方の実家があるソウルに移り住んだ。


[[進明普通学校]]を経て[[進明女子高等普通学校]]に進み、[[1930年]]に[[梨花女子専門学校]]英文科に進学した。この頃から[[詩]]の習作を始め、同校を卒業する頃には詩人として相当の水準に達していた。本格的に詩作に没頭するのは[[朝鮮中央日報]]社に勤めてからである。[[1935年]]、[[呉一島]]が創刊した詩誌『[[詩苑]]』の創刊号に「{{Lang|ko|나의 靑春의 배는}}(私の青春の船は)」が掲載され、文壇に登場する。『[[詩文学]]』を発行していた[[朴龍チョル|朴龍喆]]の妹である[[朴鳳子]]と同学であったので、よく朴龍喆宅に遊びに行っていた。また、海外文学派が作った[[劇芸術研究会]]の会員になり、海外文学派とも親交があった。
[[進明普通学校]]を経て[[進明女子高等普通学校]]に進み、[[1930年]]に[[梨花女子専門学校]]英文科に進学した。この頃から[[詩]]の習作を始め、同校を卒業する頃には詩人として相当の水準に達していた。本格的に詩作に没頭するのは[[朝鮮中央日報]]社に勤めてからである。[[1935年]]、[[呉一島]]が創刊した詩誌『[[詩苑]]』の創刊号に「{{Lang|ko|나의 靑春의 배는}}(私の青春の船は)」が掲載され、文壇に登場する。『[[詩文学]]』を発行していた[[朴龍喆]]の妹である[[朴鳳子]]と同学であったので、よく朴龍喆宅に遊びに行っていた。また、海外文学派が作った[[劇芸術研究会]]の会員になり、海外文学派とも親交があった。


[[1938年]]、[[咸大勲]]、[[李軒求]]、[[徐恒錫]]、[[曺希淳]]、[[李時雄]]、[[毛允淑]]、[[崔永秀]]、[[金福鎮]]等劇芸術研究会のメンバーと、[[アントン・チェーホフ]]の「桜の園」を演じた。この公演に来ていた[[普成専門学校]]で[[経済学]]を教えていた教授、[[金光鎮]]と出会い、恋に落ちる。しかし、金には妻がおり、幸せな恋愛にはならなかった。この顛末は社会的な話題になり、[[兪鎮午]]が彼等の恋愛を「離婚」という小説で出したのでなお有名になった。結局、その恋愛は[[1949年]]に金が[[平壌]]に行ったきり戻って来ないことで終わった。
[[1938年]]、[[咸大勲]]、[[李軒求]]、[[徐恒錫]]、[[曺希淳]]、[[李時雄]]、[[毛允淑]]、[[崔永秀]]、[[金福鎮]]等劇芸術研究会のメンバーと、[[アントン・チェーホフ]]の「桜の園」を演じた。この公演に来ていた[[普成専門学校]]で[[経済学]]を教えていた教授、[[金光鎮]]と出会い、恋に落ちる。しかし、金には妻がおり、幸せな恋愛にはならなかった。この顛末は社会的な話題になり、[[兪鎮午]]が彼等の恋愛を「離婚」という小説で出したのでなお有名になった。結局、その恋愛は[[1949年]]に金が[[平壌]]に行ったきり戻って来ないことで終わった。

2020年8月22日 (土) 04:14時点における版

盧天命
各種表記
ハングル 노천명
漢字 盧天命
発音: ノ・ジョンミョン
日本語読み: ろてんめい
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盧天命(ろてんめい、1912年9月2日 - 1957年6月16日)は朝鮮詩人。孤独な生涯を郷土的世界と主情的世界を詩に読むことに捧げた。代表作「사슴(鹿)」は、盧の代名詞となっている。

略歴

1912年9月2日、黄海道長淵郡蒪澤面に生まれる。父は西海盧氏の盧啓一、母は義城金氏の金鴻基、3人姉妹の次女。盧啓一は村の小地主で船関係の商売もしていたため、家は裕福な方であった。盧は生まれたとき、基善と名づけられたが、5歳のときに麻疹にかかり、危うく命を落としそうになる。この一件の後、天命と名を改めた。1920年、盧が9歳のとき、父が亡くなると、母方の実家があるソウルに移り住んだ。

進明普通学校を経て進明女子高等普通学校に進み、1930年梨花女子専門学校英文科に進学した。この頃からの習作を始め、同校を卒業する頃には詩人として相当の水準に達していた。本格的に詩作に没頭するのは朝鮮中央日報社に勤めてからである。1935年呉一島が創刊した詩誌『詩苑』の創刊号に「나의 靑春의 배는(私の青春の船は)」が掲載され、文壇に登場する。『詩文学』を発行していた朴龍喆の妹である朴鳳子と同学であったので、よく朴龍喆宅に遊びに行っていた。また、海外文学派が作った劇芸術研究会の会員になり、海外文学派とも親交があった。

1938年咸大勲李軒求徐恒錫曺希淳李時雄毛允淑崔永秀金福鎮等劇芸術研究会のメンバーと、アントン・チェーホフの「桜の園」を演じた。この公演に来ていた普成専門学校経済学を教えていた教授、金光鎮と出会い、恋に落ちる。しかし、金には妻がおり、幸せな恋愛にはならなかった。この顛末は社会的な話題になり、兪鎮午が彼等の恋愛を「離婚」という小説で出したのでなお有名になった。結局、その恋愛は1949年に金が平壌に行ったきり戻って来ないことで終わった。

1938年1月、詩集『珊瑚林』に「사슴(鹿)」という詩が収録された。盧の代名詞ともなる詩である。盧はか弱い草食動物である鹿に自分の孤独を発見した。

1945年、朝鮮が解放を迎えたかと思うと、すぐに朝鮮戦争が始まった。盧は好むと好まざるとに関わらず、生きるために朝鮮文学家同盟の一員として活動した。これが、共産軍に加担したという嫌疑になり、捕らえられることになる。1951年、盧は金珖燮に自分を救い出すように手紙で要求し、これを受け取った金は金尚鎔李軒求李健赫等と協力して釈放運動を起こし、1951年3月2日、釈放された。

1956年、『梨花70年史』を執筆しているとき、体調を損ね、翌1957年3月7日には、脳溢血で清涼里の衛星病院に入院する。そのときはまもなく退院するが、6月16日、午前1時30分、桜下洞の自宅で息を引き取った。遺骨は、18日にソウル市東区中谷洞のカトリック墓地に埋葬された。

年譜

  • 1912年9月2日、黄海道長淵郡蒪澤面に生まれる。
  • 1917年、麻疹にかかり、一命を取り留める。名を「天命」に改名する。
  • 1926年、進明普通学校を卒業。
  • 1930年、進明女子高等普通学校を卒業
  • 1930年、梨花女子専門学校(現梨花女子大学校)英文科に入学。
  • 1934年、梨花女子専門学校を卒業。
  • 1934年、ソウル鍾路区安国洞107番地に引っ越す。朝鮮中央日報社学芸部の記者になる。
  • 1935年2月、『詩苑』創刊号に詩「나의 靑春의 배는(私の青春の船は)」で文壇にデビュー。
  • 1937年、朝鮮中央日報社を辞める。龍井北間島二頭構延吉などを旅行する。
  • 1938年、朝鮮日報出版部の雑誌『女性』を編集。
  • 1938年、普成専門学校の教授、金光鎮と出会う。
  • 1941年、『女性』の編集を辞める。
  • 1943年、毎日申報の文化部記者になる。
  • 1945年、ソウル新聞社の文化部記者になる。
  • 1946年、ソウル新聞社を辞める。
  • 1946年、婦女新聞社編集局次長になる。
  • 1947年、婦女新聞社を辞める。
  • 1949年、ソウル市鍾路区桜下洞225番地に引っ越す。
  • 1950年9月、共産軍に加担していたという嫌疑で投獄される。
  • 1957年3月、脳溢血で清涼里の衛生病院に入院する。まもなく退院。
  • 1957年6月16日、自宅にて死亡。