「サラハ」の版間の差分
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『八十四成就者伝』の伝えるところによると、サラハは[[荼吉尼天|ダーキニー]]の子で、東インドの[[バラモン]]だったが、仏教にも帰依し、昼間はバラモンの教え、夜は仏教の勤めを行っていた。あるときバラモンたちはサラハが酒を飲んでバラモンの戒律を破ったと聞き、彼を追放するよう王に訴えた。サラハは自らの無実を証明するために王や他のバラモンの前でさまざまな神通力を示した。このときサラハは王・王妃・人々のための3つのドーハーを歌い、バラモンたちは仏門に入った。その後サラハは15歳の娘とともに隠棲した。ある日サラハは娘にカブの料理が食べたいと言い、娘はカブを煮込んだが、サラハはそのまま12年間も三昧に入り、三昧から戻った後にカブはどうしたかと聞いた。それからサラハは山にこもろうとしたが、娘は「体が孤独であっても心が孤独でなければなりません。あなたは12年間も三昧に入っていたのにカブの概念から離れられなかったではありませんか。山に行ったところで何になるでしょう。」と言った。娘のこの言葉によってサラハは執着を捨て、{{仮リンク|大印契|en|Mahamudra}}を得た<ref>Schaeffer (2005) p.16-18</ref><ref>杉木訳(2000) pp.28-33</ref>。 |
『八十四成就者伝』の伝えるところによると、サラハは[[荼吉尼天|ダーキニー]]の子で、東インドの[[バラモン]]だったが、仏教にも帰依し、昼間はバラモンの教え、夜は仏教の勤めを行っていた。あるときバラモンたちはサラハが酒を飲んでバラモンの戒律を破ったと聞き、彼を追放するよう王に訴えた。サラハは自らの無実を証明するために王や他のバラモンの前でさまざまな神通力を示した。このときサラハは王・王妃・人々のための3つのドーハーを歌い、バラモンたちは仏門に入った。その後サラハは15歳の娘とともに隠棲した。ある日サラハは娘にカブの料理が食べたいと言い、娘はカブを煮込んだが、サラハはそのまま12年間も三昧に入り、三昧から戻った後にカブはどうしたかと聞いた。それからサラハは山にこもろうとしたが、娘は「体が孤独であっても心が孤独でなければなりません。あなたは12年間も三昧に入っていたのにカブの概念から離れられなかったではありませんか。山に行ったところで何になるでしょう。」と言った。娘のこの言葉によってサラハは執着を捨て、{{仮リンク|大印契|en|Mahamudra}}を得た<ref>Schaeffer (2005) p.16-18</ref><ref>杉木訳(2000) pp.28-33</ref>。 |
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別の伝説によると、サラハは南インドのバラモンで、[[ラーフラ]]の弟子になり、また[[ナーガールジュナ]]の師であった。あるとき市場で娘が矢を作っている様子を見て真理を悟り、名前をサラハ(矢を射た)と改めた。サラハは娘とともに瞑想やヨーガの修練を行った。サラハは死体置き場に住んでヴァジュラギーティを歌ったが、人々はサラハの破戒行為を非難した。そこでサラハはドーハーを作って人々・王妃・王を教化した<ref>Schaeffer (2005) pp.18-22</ref>。 |
別の伝説によると、サラハは南インドのバラモンで、[[摩睺羅伽|ラーフラ]]の弟子になり、また[[ナーガールジュナ]]の師であった。あるとき市場で娘が矢を作っている様子を見て真理を悟り、名前をサラハ(矢を射た)と改めた。サラハは娘とともに瞑想やヨーガの修練を行った。サラハは死体置き場に住んでヴァジュラギーティを歌ったが、人々はサラハの破戒行為を非難した。そこでサラハはドーハーを作って人々・王妃・王を教化した<ref>Schaeffer (2005) pp.18-22</ref>。 |
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== 著作 == |
== 著作 == |
2020年8月21日 (金) 21:13時点における版
サラハ(Saraha)またはサラハパーダ(Sarahapāda)は、密教サハジャ乗を説いたインドの僧で、シッダ(成就者)のひとりとされ、詩集『ドーハー・コーシャ』の作者として知られる。経歴は不明であるが、サラハを含むサハジャ乗のシッダたちは8世紀から11世紀ごろの人物とされる[1]。
「サラハ」という名前は「矢(śara)を射た(han)」を意味するとされ[2]、図像学上は矢を持つ姿で表される。
伝説
サラハについては12世紀の『八十四成就者伝』や16世紀のパウォ・ツクラク『賢者の宴』など、主にチベットで書かれた書物に伝記が載せられているが、これらの書物にいうところは実にさまざまであり、生まれた年も紀元前3世紀から12世紀まで、場所も南インド・東インド・北インドなどと一致せず、史実としては何もわからないというのに近い[3]。
『八十四成就者伝』の伝えるところによると、サラハはダーキニーの子で、東インドのバラモンだったが、仏教にも帰依し、昼間はバラモンの教え、夜は仏教の勤めを行っていた。あるときバラモンたちはサラハが酒を飲んでバラモンの戒律を破ったと聞き、彼を追放するよう王に訴えた。サラハは自らの無実を証明するために王や他のバラモンの前でさまざまな神通力を示した。このときサラハは王・王妃・人々のための3つのドーハーを歌い、バラモンたちは仏門に入った。その後サラハは15歳の娘とともに隠棲した。ある日サラハは娘にカブの料理が食べたいと言い、娘はカブを煮込んだが、サラハはそのまま12年間も三昧に入り、三昧から戻った後にカブはどうしたかと聞いた。それからサラハは山にこもろうとしたが、娘は「体が孤独であっても心が孤独でなければなりません。あなたは12年間も三昧に入っていたのにカブの概念から離れられなかったではありませんか。山に行ったところで何になるでしょう。」と言った。娘のこの言葉によってサラハは執着を捨て、大印契を得た[4][5]。
別の伝説によると、サラハは南インドのバラモンで、ラーフラの弟子になり、またナーガールジュナの師であった。あるとき市場で娘が矢を作っている様子を見て真理を悟り、名前をサラハ(矢を射た)と改めた。サラハは娘とともに瞑想やヨーガの修練を行った。サラハは死体置き場に住んでヴァジュラギーティを歌ったが、人々はサラハの破戒行為を非難した。そこでサラハはドーハーを作って人々・王妃・王を教化した[6]。
著作
サラハはアパブランシャで書かれた有韻二行連詩(ドーハー)を集めた教説的詩集『ドーハー・コーシャ』(dohākoṣa)の作者としてもっとも知られる。
日本語訳:
- 奈良康明「サラハパーダ作 ドーハー・コーシャ (翻訳及びノート) (I)」『駒澤大學佛教學部研究紀要』第24巻、1966年、13-33頁。
- 奈良康明「サラハパーダ作 ドーハー・コーシャ (翻訳及びノート) (II)」『駒澤大學佛教學部研究紀要』第25巻、1967年、28-50頁。
サラハの作とされるドーハー集にはほかに『王のドーハー』と『王妃のドーハー』が存在するが、これらの真偽についてはチベット人の間でも議論があり、11世紀ネパールのBalpo Asuによる偽作とする説があった。一般にカギュー派はこれらを真作としたが、他派はそうでなかった[7]。
影響
15世紀のカビールなど、サント(en)と言われる人々のドーハーと『ドーハー・コーシャ』の内容が既存の宗教の批判や経典など書かれたものに対する不信感など、主題的にサラハのものによく似ていることが指摘されている[8][9]。
脚注
参考文献
- Schaeffer, Kurtis R. (2005). Dreaming the Great Brahmin: Tibetan Traditions of the Buddhist Poet-Saint Saraha. Oxford University Press. ISBN 0195173732
- Schomer, Karine (1987). “The Dohā as a vehicle of Sant Teachings”. In Karine Schomer; W.H. McLeod. The Sants: Studies in a Devotional Tradition of India. Motilal Banarsidass Publ.. pp. 61-90. ISBN 8120802772
- 橋本泰元「カビールのドーハー(二行詩) : その歴史と教説 (里道徳雄追悼号)」『東洋学論叢』第21巻、1996年、105-88頁。
- 杉木恒彦 訳『八十四人の密教行者』宮坂宥明+ペマ・リンジン(画)、春秋社、2000年。ISBN 4393111184。