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「秦宜禄」の版間の差分

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== 事跡 ==
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[[呂布]]配下。[[建安 (漢)|建安]]3年([[198年]])、[[曹操]]が下邳城に立て籠もる呂布を包囲すると、秦宜禄は呂布の使者として[[袁術]]の下へ救援要請に赴いたが<ref>恐らく同僚の[[許シ|許汜]]・[[王楷]]に同行したものと思われる。</ref>、その先で袁術によって滅ぼされた陳愍王の[[劉寵 (陳王)|劉寵]]([[明帝 (漢)|明帝]]の後裔)の娘と結婚させられた。なお、秦宜禄には[[杜氏 (三国時代)|杜氏]]という妻がおり下邳に留まっていたが、呂布滅亡後に曹操の側室となった。
[[呂布]]配下。[[建安 (漢)|建安]]3年([[198年]])、[[曹操]]が下邳城に立て籠もる呂布を包囲すると、秦宜禄は呂布の使者として[[袁術]]の下へ救援要請に赴いたが<ref>恐らく同僚の[[許汜]]・[[王楷]]に同行したものと思われる。</ref>、その先で袁術によって滅ぼされた陳愍王の[[劉寵 (陳王)|劉寵]]([[明帝 (漢)|明帝]]の後裔)の娘と結婚させられた。なお、秦宜禄には[[杜氏 (三国時代)|杜氏]]という妻がおり下邳に留まっていたが、呂布滅亡後に曹操の側室となった。


秦宜禄は呂布が滅亡すると曹操に降り、[[沛郡]][[スイ渓県|銍]][[県長]]に任命された。建安4年(199年)に[[劉備]]が小沛で曹操に反旗を翻すと、その腹心[[張飛]]が秦宜禄の下にやってきて「妻を奪い取った男に仕えるのは愚かなことだ。私について来い」と勧誘した。秦宜禄も最初は受諾したが、すぐに後悔して張飛に「帰りたい」と願い出たため、怒った張飛に殺害されてしまった。
秦宜禄は呂布が滅亡すると曹操に降り、[[沛郡]][[スイ渓県|銍]][[県長]]に任命された。建安4年(199年)に[[劉備]]が小沛で曹操に反旗を翻すと、その腹心[[張飛]]が秦宜禄の下にやってきて「妻を奪い取った男に仕えるのは愚かなことだ。私について来い」と勧誘した。秦宜禄も最初は受諾したが、すぐに後悔して張飛に「帰りたい」と願い出たため、怒った張飛に殺害されてしまった。

2020年8月21日 (金) 08:54時点における版

秦宜禄
後漢
銍県長
出生 生年不詳
并州雲中郡
死去 199年(建安4年)
拼音 Qín Yílù
別名 秦誼[1]
主君 呂布曹操劉備
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秦 宜禄[1](しん ぎろく、? - 199年)は、中国後漢時代末期の武将。并州雲中郡(現在の内モンゴル自治区フフホト市)の人。子は秦朗

事跡

呂布配下。建安3年(198年)、曹操が下邳城に立て籠もる呂布を包囲すると、秦宜禄は呂布の使者として袁術の下へ救援要請に赴いたが[2]、その先で袁術によって滅ぼされた陳愍王の劉寵明帝の後裔)の娘と結婚させられた。なお、秦宜禄には杜氏という妻がおり下邳に留まっていたが、呂布滅亡後に曹操の側室となった。

秦宜禄は呂布が滅亡すると曹操に降り、沛郡県長に任命された。建安4年(199年)に劉備が小沛で曹操に反旗を翻すと、その腹心張飛が秦宜禄の下にやってきて「妻を奪い取った男に仕えるのは愚かなことだ。私について来い」と勧誘した。秦宜禄も最初は受諾したが、すぐに後悔して張飛に「帰りたい」と願い出たため、怒った張飛に殺害されてしまった。

子の秦朗は生母が曹操の側室となり、その養子となった。後にの権臣となった。

なお、小説『三国志演義』には登場しない。

注釈

  1. ^ a b 後漢書』巻72董卓列伝にひく『九州春秋』では、秦誼と記され、呂布の命で董卓で突き刺したと述べている。
  2. ^ 恐らく同僚の許汜王楷に同行したものと思われる。

参考文献

  • 三国志』魏志3明帝紀
  • 同蜀志6関羽伝