「嵯峨実勝」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
m Bot作業依頼: 愛新覚羅氏各記事の正式な用字への改名に伴うリンク修正依頼 (福永嫮生) - log |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{出典の明記|date=2016年11月}} |
{{出典の明記|date=2016年11月}} |
||
[[File:Saneto Saga 01.jpg|thumb|200px|嵯峨実勝]] |
[[File:Saneto Saga 01.jpg|thumb|200px|嵯峨実勝]] |
||
'''嵯峨 実勝'''(さが さねとう、[[1887年]][[6月23日]] - [[1966年]][[3月27日]])は、 |
'''嵯峨 実勝'''(さが さねとう、[[明治]]20年([[1887年]])[[6月23日]] - [[昭和]]41年([[1966年]])[[3月27日]])は、明治時代から昭和時代中期にかけての[[華族]]。[[嵯峨公勝]]の長男。母は[[中山南加|南加]]。[[嵯峨家]]30代当主。[[侯爵]]。妻は9代[[浜口吉右衛門]]の長女・尚子(ひさこ)。 |
||
妹の幾久子が町田学園(現・[[品川エトワール女子高等学校]])の創始者・町田徳之助に嫁いだ縁で、[[昭和]]24年([[1949年]])6月15日、町田学園エトワール幼稚園を開園し初代園長を務めた。 |
妹の幾久子が町田学園(現・[[品川エトワール女子高等学校]])の創始者・町田徳之助に嫁いだ縁で、[[昭和]]24年([[1949年]])6月15日、町田学園エトワール幼稚園を開園し初代園長を務めた。 |
2020年8月20日 (木) 16:45時点における版
嵯峨 実勝(さが さねとう、明治20年(1887年)6月23日 - 昭和41年(1966年)3月27日)は、明治時代から昭和時代中期にかけての華族。嵯峨公勝の長男。母は南加。嵯峨家30代当主。侯爵。妻は9代浜口吉右衛門の長女・尚子(ひさこ)。
妹の幾久子が町田学園(現・品川エトワール女子高等学校)の創始者・町田徳之助に嫁いだ縁で、昭和24年(1949年)6月15日、町田学園エトワール幼稚園を開園し初代園長を務めた。
子女
- 長女 - 嵯峨浩:愛新覚羅溥傑妃
- 次女 - 池見啓子(あきこ、1916年 - ):夫は学校法人池見学園の理事長・校長であり、精神科医の権威でもある池見猛。
- 三女 - 福永泰子(1917年か1918年 - 2006年9月11日[1]):香淳皇后の女官。泰子が福永家に嫁いだ縁で、浩の次女・嫮生と泰子の夫の甥が結婚する。
- 四女 - 町田幹子(ことこ、- 2000年4月11日[2])
- 夫はいとこにあたる町田徳之助・幾久子夫婦の次男・勉(元日本学生ライフル射撃連盟会長)。浩の3人の妹の中で浩やその2人の娘と一番関係が深かった。昭和15年(1940年)に満州国に戻る浩に同行し、浩一家とともに満州国で暮らし、昭和18年(1943年)学習院幼稚園に入学する浩の長女・慧生を連れて日本に帰る。昭和32年(1957年)の天城山心中では、慧生が失踪した翌日に夫とともに嵯峨家に駆け付け、浩の代わりに天城山に行った。昭和36年(1961年)に浩が北京の溥傑の許に帰った際には北京まで同行し、日本に戻る意志を示していた嫮生を連れて帰国している。昭和61年(1986年)病気で入院していた浩の依頼に応じて北京に行って浩をつきっきりで看病し、翌年溥傑とともに浩の最期を看取った。平成6年(1994年)には嫮生らとともに溥傑の最期を看取った。2000年4月、80歳で死去。
- 長男 - 嵯峨公元
脚注
- ^ 福永泰子さん死去 故愛新覚羅溥傑氏夫人の妹 47NEWS 2006年9月12日
- ^ 『読売新聞』2000年4月17日付夕刊。
日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 嵯峨公勝 |
侯爵 嵯峨家第2代 1941年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |