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[[大納言|権大納言]]・[[中山忠能]]の七男 |
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しかし[[八月十八日の政変]]によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、[[江戸幕府|幕府]]により鎮圧を命じられた[[彦根藩]]や[[紀伊藩]]兵から逆賊として追討される事となる。突如、賊軍とされた事に困惑しながらも、忠光は各地で追手の諸藩相手に奮戦するも、徐々に追い詰められていき、9月24日、[[吉野]]鷲家口で幕府軍による大規模な包囲網に捕捉され、天誅組は壊滅した。それでも[[那須信吾]]、[[宍戸弥四郎]]ら天誅組の志士達の決死の奮闘のおかげで、忠光は奇跡的に幕府軍の包囲網を抜ける事に成功し、[[大阪|大坂]]へ脱出した後、長州に逃れた。 |
しかし[[八月十八日の政変]]によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、[[江戸幕府|幕府]]により鎮圧を命じられた[[彦根藩]]や[[紀伊藩]]兵から逆賊として追討される事となる。突如、賊軍とされた事に困惑しながらも、忠光は各地で追手の諸藩相手に奮戦するも、徐々に追い詰められていき、9月24日、[[吉野]]鷲家口で幕府軍による大規模な包囲網に捕捉され、天誅組は壊滅した。それでも[[那須信吾]]、[[宍戸弥四郎]]ら天誅組の志士達の決死の奮闘のおかげで、忠光は奇跡的に幕府軍の包囲網を抜ける事に成功し、[[大阪|大坂]]へ脱出した後、長州に逃れた。 |
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長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、[[元治]]元年([[1864年]])の[[禁門の変]]、[[下関戦争]]、[[第一次長州征伐]]によって藩内[[俗論派]]が台頭すると、同年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]の夜に長府藩の[[豊浦郡]][[田耕村]]で5人の刺客によって暗殺された。享年20。墓所は[[山口県]][[下関市]]の[[中山神社 (下関市)|中山神社]]境内にある。[[明治]]3年10月5日([[1870年]][[10月29日]])、贈[[従四位]]。[[明治31年]]([[1898年]])11月、贈[[正四位]]。 |
長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、[[元治]]元年([[1864年]])の[[禁門の変]]、[[下関戦争]]、[[第一次長州征伐]]によって藩内[[俗論派]]が台頭すると、同年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]の夜に長府藩の[[豊浦郡]][[田耕村]]で5人の刺客によって暗殺された。享年20。 |
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墓所は[[山口県]][[下関市]]の[[中山神社 (下関市)|中山神社]]境内にある。[[明治]]3年10月5日([[1870年]][[10月29日]])、贈[[従四位]]。[[明治31年]]([[1898年]])11月、贈[[正四位]]。 |
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なお、長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われているが、実際の華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められ、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、長府藩もその制度に漏れなかったというだけである。 |
なお、長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われているが、実際の華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められ、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、長府藩もその制度に漏れなかったというだけである。 |
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長府藩潜伏中、現地女性の[[恩地トミ]]を[[妾|侍妾]]とし、トミは忠光死後に唯一の遺児となる娘・南加を産む。南加は中山家に引き取られたのち、中山家と縁の深い[[嵯峨家]]に嫁ぐ。南加の孫で忠光の曾孫にあたる[[嵯峨浩|浩]]は、[[清|清朝]]最後の[[皇帝 (中国)|皇帝]]でのちに[[満州国皇帝]]となった[[愛新覚羅溥儀]]の弟である[[愛新覚羅溥傑|溥傑]]に嫁いだ。 |
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* やすおか史誌編輯委員会編、『やすおか史誌』、下関市安岡合併五十周年実行委員会、1990年。 |
* やすおか史誌編輯委員会編、『やすおか史誌』、下関市安岡合併五十周年実行委員会、1990年。 |
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* 山田風太郎『人間臨終図巻』[[徳間書店]]、1986年。 |
* 山田風太郎『人間臨終図巻』[[徳間書店]]、1986年。 |
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* [[楠戸義昭]]・[[岩尾光代]] 『続 維新の女』[[毎日新聞社]]、1993年7月5日発行。 |
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*[[嵯峨浩]] |
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2020年8月20日 (木) 12:06時点における版
中山忠光 (『近世文武英雄伝』(大蘇芳年(月岡芳年)画) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 弘化2年4月13日(1845年5月18日) |
死没 | 元治元年11月15日(1864年12月13日) |
改名 | 忠光→森俊斎 |
墓所 | 山口県下関市の中山神社境内 |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 孝明天皇 |
氏族 | 中山家 |
父母 | 父:中山忠能、母:中山愛子(松浦清の11女) |
兄弟 | 忠愛、慶子、正親町公董、忠光、他 |
妻 | 妾:恩地トミ |
子 | 仲子 |
中山 忠光(なかやま ただみつ)は、江戸時代後期(幕末期)の公家。天誅組の主将。
系譜
権大納言・中山忠能の七男。母は平戸藩主・松浦清の娘愛子。明治天皇の生母中山慶子は同母姉であり、忠光は明治天皇の叔父にあたる。
生涯
明治天皇(祐宮)は5歳まで中山家で育つ。7歳上の忠光は祐宮と共に過ごし、宮中に入ってからは侍従として祐宮の遊びや学問の相手をした。中山家は祐宮誕生の際に産屋を建てる金が無く、多額の借金をした。宮廷も貧しく、祐宮の質素な生活が忠光の過激な攘夷論に火を付けたと思われる。父・忠能の元に出入りする武市半平太、久坂玄瑞、吉村虎太郎ら志士と親しく交わる。
早くより真木保臣ら尊王攘夷派の志士と交わって公武合体派の排斥運動では急先鋒となって画策した。文久3年(1863年)2月、朝廷に国事寄人が新設されると19歳でこれに加えられたが、密かに京都を脱して長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名。久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加した。7月18日、水戸藩士吉成勇太郎らと面談。生野の変に参加した水戸藩士関口泰次郎等を、長州へ送る計画について話した。8月13日に大和行幸の詔が出されると攘夷先鋒の勅命を奉じると称して退京し、吉村らと共に大和行幸の先鋒組織として『天誅組』を立ち上げ、大和五條の代官所を襲撃して挙兵した(天誅組の変)。
しかし八月十八日の政変によって京都の尊攘過激派が一掃されると朝廷からも見放され、幕府により鎮圧を命じられた彦根藩や紀伊藩兵から逆賊として追討される事となる。突如、賊軍とされた事に困惑しながらも、忠光は各地で追手の諸藩相手に奮戦するも、徐々に追い詰められていき、9月24日、吉野鷲家口で幕府軍による大規模な包囲網に捕捉され、天誅組は壊滅した。それでも那須信吾、宍戸弥四郎ら天誅組の志士達の決死の奮闘のおかげで、忠光は奇跡的に幕府軍の包囲網を抜ける事に成功し、大坂へ脱出した後、長州に逃れた。
長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に預けて保護したが、元治元年(1864年)の禁門の変、下関戦争、第一次長州征伐によって藩内俗論派が台頭すると、同年11月15日の夜に長府藩の豊浦郡田耕村で5人の刺客によって暗殺された。享年20。
墓所は山口県下関市の中山神社境内にある。明治3年10月5日(1870年10月29日)、贈従四位。明治31年(1898年)11月、贈正四位。
なお、長府藩主が維新後、子爵にとどまったのはこのためと言われているが、実際の華族の爵位は華族制度発効時の所領の実高に拠り定められ、実高1万石以上5万石以下は子爵と規定されており、長府藩もその制度に漏れなかったというだけである。
子孫
長府藩潜伏中、現地女性の恩地トミを侍妾とし、トミは忠光死後に唯一の遺児となる娘・南加を産む。南加は中山家に引き取られたのち、中山家と縁の深い嵯峨家に嫁ぐ。南加の孫で忠光の曾孫にあたる浩は、清朝最後の皇帝でのちに満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ。
参考文献
- 栗田藤平『雷鳴福岡藩』 弦書房、2004年
- やすおか史誌編輯委員会編、『やすおか史誌』、下関市安岡合併五十周年実行委員会、1990年。
- 山田風太郎『人間臨終図巻』徳間書店、1986年。
- 楠戸義昭・岩尾光代 『続 維新の女』毎日新聞社、1993年7月5日発行。