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== 生涯 ==
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光武9年([[1905年]])には[[大佐|正領]]・軍部教育局長・[[少将|参将]]・勅任軍部教育局長を務め、正月報聘使の[[李載完]]に随行して渡日し、日本政府から勲二等[[瑞宝章]]を授与された。帰国後は鎮衛隊検閲使になり、翌光武10年([[1906年]])には勲三等八卦章を授与された。

2020年8月20日 (木) 00:55時点における版

李秉武
李秉武(1910年、『朝鮮貴族列傳』より)
本貫氏派 全州李氏
子女 李鴻黙
李秉武
이병무
所属組織 大韓帝国陸軍
 大日本帝国陸軍
軍歴 1884年 - 1910年(大韓帝国軍軍人)
1910年 - 1920年(日本陸軍朝鮮軍人)
1920年 - 1926年(日本陸軍軍人)
最終階級 陸軍中将
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李 秉武(り へいぶ、1864年2月8日 - 1926年12月6日)は、李氏朝鮮末期の政治家、大韓帝国軍及び大日本帝国陸軍の軍人。現在の大韓民国では丁未七賊庚戌国賊及び親日派の一人とされている。

生涯

茂林君朝鮮語版李善生(定宗の庶子)の子孫として生まれる。光緒10年(1884年)に武科に合格し、宣伝官・親軍統衛営隊官・訓錬院主簿などを務めた。開国503年(1894年)に日清戦争祝賀使となった義和君李堈に随行して渡日し、陸軍教導団を経て翌開国504年(1895年)に日本の陸軍士官学校(7期)に入学し、卒業した。帰国後は大韓帝国軍正尉として陸軍武官学校教官に任命され、翌年には参領昇進と同時に武官学校教頭となり、この頃から日本と親密な関係を築くようになった。光武4年(1900年)、日本に亡命した者と連絡を取った疑いで古群山群島流刑となったが、2年後に赦免され、武官学校長及び陸軍幼年学校の校長となった。

光武9年(1905年)には正領・軍部教育局長・参将・勅任軍部教育局長を務め、正月報聘使の李載完に随行して渡日し、日本政府から勲二等瑞宝章を授与された。帰国後は鎮衛隊検閲使になり、翌光武10年(1906年)には勲三等八卦章を授与された。

光武11年(1907年)には、李完用内閣の軍部大臣臨時署理侍従武官長として第3次日韓協約締結に尽力し、高宗譲位と軍隊解散を積極的に主導した。解散された軍隊を中心に義兵抗争が起きた際は。義兵弾圧を指揮した。これらの功績から、正二品に、2ヵ月後には従一品に特別陞資されて、勲二等太極章と日本政府から勲一等旭日大綬章を授与された。

隆熙3年(1909年)には親衛庁長官兼侍従武官長となる。翌隆熙4年(1910年)の日韓併合条約締結の際には、条約締結に積極的に協力したことから、朝鮮貴族として子爵に列せられ、1915年大正4年)には大礼記念章を授与された。

日韓併合に伴い日本陸軍に転籍し、1920年(大正9年)4月26日に大正9年勅令第118号が発せられたことにより、朝鮮軍人たる陸軍副将から一般の陸軍中将に転じた。

死去して2日後の1926年(大正15年)12月8日に、勲一等旭日桐花大綬章を追贈された。

死後の評価

2002年に「民族の精気を立てる国会議員の集い」が光復会とともに発表した親日派708人名簿と、2005年民族問題研究所で親日人名辞書に収録するために整理した親日人名辞書収録予定者1次名簿において選定された。また、2006年日本統治時代初期の親日反民族行為106人名簿が発表された際にも選定された。

栄典

脚注

  1. ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。

関連項目