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== 『十六国春秋』の記述 == |
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2020年8月20日 (木) 00:53時点における版
武昭王 李暠 | |
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西涼 | |
初代公 | |
王朝 | 西涼 |
在位期間 | 400年 - 417年 |
都城 | 敦煌→酒泉 |
姓・諱 | 李暠 |
字 | 玄盛 |
小字 | 長生 |
諡号 |
武昭王 興聖皇帝(唐の高祖による) |
廟号 | 太祖 |
生年 | 建興39年(351年) |
没年 | 建初13年(417年)2月 |
父 | 李昶 |
陵墓 | 建世陵 |
年号 |
庚子 : 400年 - 404年 建初 : 405年 - 417年 |
李 暠[1](り こう)は、五胡十六国時代の西涼の創始者。字は玄盛、小字は長生。諡号は武昭王。本貫は隴西郡狄道県(現在の甘粛省定西市臨洮県)。
生涯
李昶(字は中堅)の子として生まれた。
隴西李氏は河西地方の漢族社会でかなりの名族として認められていた。秦の名将李信を祖とし、その曾孫の前漢の名将李広の子の李敢の15世孫といわれる。祖父の李弇は前涼の武衛将軍・天水郡太守を務めて安世亭侯に封じられ、李暠の代まで世襲された。父の李昶は李暠が生まれる前に死去したために、孤児となった彼は若くして学問を好み、経史に通ずる一方、武芸にも堪能で、孫呉の兵法に習熟した。沈着で大らかな性格であったため、漢人豪族らの信望を集めた。
龍飛2年(397年)、後涼の建康郡太守段業が後涼から自立して北涼を建てた。翌神璽2年(398年)4月、敦煌を支配した段業は敦煌郡太守の孟敏を沙州刺史に任命、同時に漢人豪族の支持の厚い李暠をその配下の效穀県令に任じた。間もなく孟敏が病死したために、漢人豪族らの推挙を受けて李暠が敦煌郡太守となった。
天璽2年(400年)11月、北涼の晋昌郡太守唐瑶が北涼から離反、李暠を大将軍・涼公・秦涼二州牧・護羌校尉に推戴したことがきっかけとなり、西涼が成立した。
即位後は北涼の沮渠蒙遜の侵攻を撥ねつける一方、農耕・養蚕や西域との貿易を奨励して安定した国家を築いた。また漢族社会の伝統に従い、学校を作って儒教を振興し、常に漢文化の保持に努めた。
建初13年(417年)2月に病死、享年67。次男の李歆が後を継いだ。
なお、唐の高祖李淵は武昭王の八世孫を称していたため、唐代に成立した『晋書』ではその諱を避けて字で李玄盛と記される。だが、宮崎市定の説によると唐室の李氏は異民族系の大野部(だいやぶ)が漢化した氏族であり[2]、武昭王との血縁関係は全くないと考えられている。ある説では、武昭王の子孫が北魏に滅ぼされると、何故か特別な計らいで西涼李氏は北魏の庇護を受けて、以降も続いたという。『新唐書』によると、唐代の詩人の李白は李暠の9代目の直系とされている。
宗室
子
子孫
『十六国春秋』の記述
- 『十六国春秋』(巻八 西涼記録)
李暠,字玄盛,隴西狄道人也。漢前將軍廣十六世孫,廣子侍中敢之後。李氏世為西州著姓,祖父弇,前涼武衛將軍,天水郡太守、安世亭侯。父昶,字中堅,幼有令名,世子侍講,年二十卒。暠,昶之遺腹子,少而好學,沈敏有器度。後涼龍飛二年,建康郡太守段業自稱涼州牧,號神璽元年,拜暠效穀令。二年,敦煌索仙等以暠温毅有恵政,推暠為敦煌郡太守。段業復暠鎮西將軍,領護西夷校尉。
庚子元年十一月,晋昌郡太守唐瑶移檄六郡,推暠為大將軍、涼公,領秦涼二州牧,大赦改年,追尊祖弇涼景公,父昶涼簡公,以瑶為征東將軍。二年正月,於南間起靜恭堂,以議朝政。圖讚自古聖帝、明王、忠臣、孝子、烈士、貞女,親為序頌,以作鑒戒。
五年正月,立泮宮,增高間學生四百人。四月,敦煌有葛縁木而生,作黄鳥之形。世子譚卒。九月,立第二子歆為世子。正月,大赦改年為建初元年。三月,宴於曲水,命群寮賦詩,暠親為之叙文,寫諸葛亮《訓歴》以戒諸子。
十三年正月,寝疾,願命長史宋繇曰:“吾終之後,嗣子猶卿子也,善相輔導。”二月,薨於恭徳殿,年六十。葬建世陵,諡昭武王,廟號太祖。初,暠為群雄所推,定千里之地,謂張氏之業不足成,河西十郡,歳月而一。既而傉檀入姑臧,蒙遜基宇稍廣,於是慨然著《述志賦》。初,河右不生楸槐。張之世,取秦隴植之,皆死,至是而酒泉言西北有槐生焉,乃作《槐樹賦》,又作《婦辛氏訸》自餘賦數十篇。