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「宋繇」の版間の差分

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[[前涼]]の龍驤将軍・[[武興郡]][[太守]]の宋僚の子として生まれた。生後直後に父が張邕に殺された。5歳で母を失い、伯母の張氏に育てられた。8歳のときに張氏が死去した。妹の夫の張彦に従って[[酒泉郡|酒泉]]におもむき、師について学問した。個室で読書して昼夜倦まず、経書や史書に広く通じた。
[[前涼]]の龍驤将軍・[[武興郡]][[太守]]の宋僚の子として生まれた。生後直後に父が張邕に殺された。5歳で母を失い、伯母の張氏に育てられた。8歳のときに張氏が死去した。妹の夫の張彦に従って[[酒泉郡|酒泉]]におもむき、師について学問した。個室で読書して昼夜倦まず、経書や史書に広く通じた。


[[後涼]]の[[呂光]]のときに、秀才に挙げられ、郎中に任じられた。後に[[北涼]]の[[段業]]のもとに逃れ、中散・常侍に任じられた。段業に戦略眼がないことに失望して、[[西涼]]の[[李コウ (西涼)|李暠]]のもとを頼り、従事中郎に任じられ、折衝将軍の位を加えられた。東は涼興を討ち、西は[[玉門関|玉門]]以西の諸城を攻撃してすべて下した。[[右将軍]]・敦煌護軍となり、後にまた酒泉に移った。[[李キン (西涼)|李歆]]が立つと、宋繇は武衛将軍・[[広夏郡]]太守・軍諮祭酒・録三府事となった。北涼の[[沮渠蒙遜]]が[[南涼]]を攻撃している隙に、李歆が[[張掖郡|張掖]]を攻撃しようと計画したため、宋繇はこの出兵に反対して諫めたが、李歆は聞き入れなかった。
[[後涼]]の[[呂光]]のときに、秀才に挙げられ、郎中に任じられた。後に[[北涼]]の[[段業]]のもとに逃れ、中散・常侍に任じられた。段業に戦略眼がないことに失望して、[[西涼]]の[[李暠]]のもとを頼り、従事中郎に任じられ、折衝将軍の位を加えられた。東は涼興を討ち、西は[[玉門関|玉門]]以西の諸城を攻撃してすべて下した。[[右将軍]]・敦煌護軍となり、後にまた酒泉に移った。[[李キン (西涼)|李歆]]が立つと、宋繇は武衛将軍・[[広夏郡]]太守・軍諮祭酒・録三府事となった。北涼の[[沮渠蒙遜]]が[[南涼]]を攻撃している隙に、李歆が[[張掖郡|張掖]]を攻撃しようと計画したため、宋繇はこの出兵に反対して諫めたが、李歆は聞き入れなかった。


宋繇は儒学を好んで、家には財産を蓄えず、兵火の間にあっても、経書の講読をやめなかった。儒士が訪れるたびに喜んで出迎え、政務を放擲して経典について談義した。職務の判断は明快で、行政事務は遅滞を引き起こさなかった。
宋繇は儒学を好んで、家には財産を蓄えず、兵火の間にあっても、経書の講読をやめなかった。儒士が訪れるたびに喜んで出迎え、政務を放擲して経典について談義した。職務の判断は明快で、行政事務は遅滞を引き起こさなかった。

2020年8月20日 (木) 00:52時点における版

宋 繇(そう よう、生没年不詳)は、中国五胡十六国から北魏にかけての人物。は体業。本貫敦煌郡

経歴

前涼の龍驤将軍・武興郡太守の宋僚の子として生まれた。生後直後に父が張邕に殺された。5歳で母を失い、伯母の張氏に育てられた。8歳のときに張氏が死去した。妹の夫の張彦に従って酒泉におもむき、師について学問した。個室で読書して昼夜倦まず、経書や史書に広く通じた。

後涼呂光のときに、秀才に挙げられ、郎中に任じられた。後に北涼段業のもとに逃れ、中散・常侍に任じられた。段業に戦略眼がないことに失望して、西涼李暠のもとを頼り、従事中郎に任じられ、折衝将軍の位を加えられた。東は涼興を討ち、西は玉門以西の諸城を攻撃してすべて下した。右将軍・敦煌護軍となり、後にまた酒泉に移った。李歆が立つと、宋繇は武衛将軍・広夏郡太守・軍諮祭酒・録三府事となった。北涼の沮渠蒙遜南涼を攻撃している隙に、李歆が張掖を攻撃しようと計画したため、宋繇はこの出兵に反対して諫めたが、李歆は聞き入れなかった。

宋繇は儒学を好んで、家には財産を蓄えず、兵火の間にあっても、経書の講読をやめなかった。儒士が訪れるたびに喜んで出迎え、政務を放擲して経典について談義した。職務の判断は明快で、行政事務は遅滞を引き起こさなかった。

沮渠蒙遜が酒泉を平定すると、宋繇の部屋には数千巻の書と、塩と米が数十斛あるのみだったので、「わたしは李歆に勝ったことは喜ばないが、宋繇を得たことだけは嬉しい」と言った。宋繇は蒙遜の下で尚書吏部郎中に任じられ、人材選挙の任を委ねられた。蒙遜が死の床につくと、その子の沮渠牧犍を補佐するよう宋繇に委嘱した。宋繇は牧犍の下で左丞となり、牧犍の妹の興平公主を北魏の平城に送った。太武帝は宋繇に対して河西王右丞相の位と清水公の爵位を与え、安遠将軍の位を加えた。太武帝が涼州を平定すると、宋繇は牧犍に従って平城に移った。死去すると、は恭といった。

長男の宋巌が清水公の爵位を嗣ぎ、西平侯に進んだ。

伝記資料