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游宝蔵の子として生まれた。16歳のとき、北斉の[[司徒]]の[[徐顕秀]]に召されて参軍事となった。[[北周]]が北斉を滅ぼすと、北周の寿春県令と[[譙州]]司馬を歴任して、有能で知られた。隋の[[開皇]]年間、殿内侍御史となった。晋王[[煬帝|楊広]]が揚州総管となると、游元はその下で法曹参軍となった。父が死去すると、服喪のために職を去った。後に内直監となった。煬帝が即位すると、尚書度支郎となった。 |
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[[612年]]([[大業]]8年)、[[隋の高句麗遠征#第2次遠征|高句麗遠征]]において、左驍衛長史を兼ね、蓋牟道監軍となった。朝請大夫の位を受け、治書侍御史を兼ねた。[[宇文述]]らが敗北すると、游元は敗戦の責任を問う取り調べをつかさどった。宇文述の権勢におもねらず、その請託をしりぞけて、宇文述の罪を率直に糾弾した。 |
2020年8月20日 (木) 00:36時点における版
游 元(ゆう げん、生年不詳 - 613年)は、北斉から隋にかけての人物。字は楚客。本貫は広平郡任城県。
経歴
游宝蔵の子として生まれた。16歳のとき、北斉の司徒の徐顕秀に召されて参軍事となった。北周が北斉を滅ぼすと、北周の寿春県令と譙州司馬を歴任して、有能で知られた。隋の開皇年間、殿内侍御史となった。晋王楊広が揚州総管となると、游元はその下で法曹参軍となった。父が死去すると、服喪のために職を去った。後に内直監となった。煬帝が即位すると、尚書度支郎となった。
612年(大業8年)、高句麗遠征において、左驍衛長史を兼ね、蓋牟道監軍となった。朝請大夫の位を受け、治書侍御史を兼ねた。宇文述らが敗北すると、游元は敗戦の責任を問う取り調べをつかさどった。宇文述の権勢におもねらず、その請託をしりぞけて、宇文述の罪を率直に糾弾した。
613年(大業9年)、楊玄感の反乱に参加を求められたが、加担せず捕らえられた。兵を使って脅されたが、屈服しなかったため殺害された。銀青光禄大夫の位を追贈された。
子の游仁宗は正議大夫・弋陽郡通守となった。