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'''張 耒'''(ちょう らい、[[1054年]] - [[1114年]])は、[[中国]][[北宋]]時代の[[文人]]。[[字]]は文潜。[[本貫]]は[[亳州]][[譙城区|譙県]]。 |
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2020年8月20日 (木) 00:33時点における版
張 耒(ちょう らい、1054年 - 1114年)は、中国北宋時代の文人。字は文潜。本貫は亳州譙県。
生涯
楚州淮陰県に生まれる。遊学中に蘇轍に学び、兄の蘇軾に認められてその門人となり、のち晁補之・秦観・黄庭堅とともに、蘇門四学士の一人に数えられる。神宗の熙寧6年(1073年)に進士に合格し、臨淮県の主簿・寿安県尉・咸平県丞を歴任。中央に推挙され大学録となり、元祐元年(1086年)、哲宗時期に秘書省正字・著作佐郎に任命される。やがて著作郎と史館検討を兼任し、その8年後に起居舎人に抜擢された。紹聖元年(1094年)には龍図閣直学士・潤州知州だったが、新法・旧法の争い(党争)に巻き込まれ、旧法党として宣州知州・監黄州酒税に左遷された。徽宗が即位すると黄州通判となり、中央に復帰して太常少卿となり、潁州知州・汝州知州を歴任。崇寧元年(1102年)、またしても党争のために罷免され、陳州に隠退して多くの門人を指導し、宛丘先生と呼ばれた。
思想
排老論者であり、かつて「老子議」を発表して老子の説を批判したことがある。筆力は雄健であり、特に騒体の作に優れ、蘇軾・蘇轍にその才を称された。蘇軾・蘇轍兄弟や黄庭堅・晁補之が相次いで没した後には大家の名をほしいままにした。常に文を作るには理を以て主とすべきと唱え、明確な文章を目指した。晩年は白居易の平淡な楽府体に学んだ。
著作
- 『柯山集』
- 『宛丘先生文集』
- 『張右史文集』
- 『張文潜文集』
参考文献
- 『宋史』巻444
- 『東都事略』巻116