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'''桓 石綏'''(かん せきすい、生年不詳 - [[410年]])は、[[東晋]]末期の[[軍人]]。[[譙郡|譙国]][[懐遠県|竜亢県]]の人。東晋の征西大将軍[[桓豁]]の子。東晋・[[桓楚]]に仕え、桓楚成立後は東晋と戦い、敗れて討死した。 |
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2020年8月20日 (木) 00:31時点における版
桓 石綏(かん せきすい、生年不詳 - 410年)は、東晋末期の軍人。譙国竜亢県の人。東晋の征西大将軍桓豁の子。東晋・桓楚に仕え、桓楚成立後は東晋と戦い、敗れて討死した。
生涯
東晋に仕え、司徒左長史に任じられていた。
403年12月、桓楚が建国されると、左衛将軍・黄門郎に任じられた。
建威将軍魏詠之・劉藩らと白茅で戦い、敗れた。
406年12月、司馬国璠(司馬叔璠の兄)・陳襲らと兵を集めて胡桃山で挙兵した。左将軍劉毅は司馬劉懐粛を遣わして、桓石綏らを破った。
410年9月、洛口で挙兵、荊州刺史を自称した。征陽県令王天恩が呼応、梁州刺史を自称した。桓石綏らは西城を攻略して、この地に拠った。梁州刺史傅歆は、その子の魏興郡太守傅弘之に討伐を命じた。傅弘之は桓石綏らを破り、桓石綏と王天恩は討死した。これにより、桓氏は滅亡した。