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== 経歴 ==
== 経歴 ==
代々京口に居をかまえ、若くして[[劉裕]]と交友関係にあった。[[404年]]([[元興 (東晋)|元興]]3年)、劉裕に従って[[桓玄]]を討ち、参建武軍事となった。[[建康 (都城)|建康]]が平定されると、向靖は参鎮軍軍事となり、寧遠将軍の号を加えられた。[[劉藩]]や[[孟龍符]]とともに桓歆・桓石康・石綏を白茅に撃破し、寿陽を攻め落とした。[[407年]]([[義熙]]3年)、建武将軍・[[秦郡]][[太守]]に転じ、[[北陳留郡|北陳留国]]内史となり、堂邑に駐屯した。桓玄征討の功績により、山陽県五等侯に封じられた。[[409年]](義熙5年)、劉裕の下で[[南燕]]に遠征して、[[臨ク県|臨朐]]で戦ったが、何カ月も決着がつかなかった。向靖は[[檀韶]]らとともに分遣隊を率いて間道から臨朐城を攻めた。向靖は先頭に立って戦い、臨朐城を攻め落とした。ついで広固城を攻撃したが、向靖はまた先頭に立って戦った。[[410年]](義熙6年)、[[盧循]]が蔡洲に駐屯し、盧循の任じた[[豫州]][[刺史]]の阮賜が姑孰を攻撃してきた。向靖は[[ショウ郡|譙国]]内史の趙恢らを率いて阮賜を討ち、これを撃破した。向靖は中軍諮議参軍に任じられた。盧循が南方に逃走し、劉裕がこれを追撃すると、向靖はその先鋒をつとめて、南陵・雷池・左里で戦い、いずれも勝利を収めた。凱旋すると、太尉諮議参軍・[[下邳郡]]太守に任じられた。
代々京口に居をかまえ、若くして[[劉裕]]と交友関係にあった。[[404年]]([[元興 (東晋)|元興]]3年)、劉裕に従って[[桓玄]]を討ち、参建武軍事となった。[[建康 (都城)|建康]]が平定されると、向靖は参鎮軍軍事となり、寧遠将軍の号を加えられた。[[劉藩]]や[[孟龍符]]とともに桓歆・桓石康・石綏を白茅に撃破し、寿陽を攻め落とした。[[407年]]([[義熙]]3年)、建武将軍・[[秦郡]][[太守]]に転じ、[[北陳留郡|北陳留国]]内史となり、堂邑に駐屯した。桓玄征討の功績により、山陽県五等侯に封じられた。[[409年]](義熙5年)、劉裕の下で[[南燕]]に遠征して、[[臨ク県|臨朐]]で戦ったが、何カ月も決着がつかなかった。向靖は[[檀韶]]らとともに分遣隊を率いて間道から臨朐城を攻めた。向靖は先頭に立って戦い、臨朐城を攻め落とした。ついで広固城を攻撃したが、向靖はまた先頭に立って戦った。[[410年]](義熙6年)、[[盧循]]が蔡洲に駐屯し、盧循の任じた[[豫州]][[刺史]]の阮賜が姑孰を攻撃してきた。向靖は[[郡|譙国]]内史の趙恢らを率いて阮賜を討ち、これを撃破した。向靖は中軍諮議参軍に任じられた。盧循が南方に逃走し、劉裕がこれを追撃すると、向靖はその先鋒をつとめて、南陵・雷池・左里で戦い、いずれも勝利を収めた。凱旋すると、太尉諮議参軍・[[下邳郡]]太守に任じられた。


[[412年]](義熙8年)、游撃将軍の号を受けた。まもなく都督馬頭淮西諸軍事・龍驤将軍・鎮蛮護軍・安豊汝陰二郡太守・[[梁郡|梁国]]内史となり、寿陽に駐屯した。軍功により、安南県男に封じられた。[[414年]](義熙10年)、冠軍将軍・[[高陽郡 (中国)|高陽国]]内史となった。[[臨淮郡]]太守に転じ、領石頭戍事をつとめた。[[415年]](義熙11年)、劉裕が[[司馬休之]]を討つと、向靖は[[呉興郡]]太守となった。[[417年]](義熙13年)、劉裕が北伐して[[後秦]]を討つと、向靖は碻磝に駐屯し、石門・柏谷に進軍した。都督[[北青州]]諸軍事・北青州刺史に任じられた。[[420年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]元年)、劉裕が帝位につくと、向靖は功績により曲江県侯に封じられた。太子左衛率に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。[[421年]](永初2年)、在官のまま死去した。享年は59。[[前将軍]]の位を追贈された。向靖は一身の倹約につとめ、田園の経営や商業をおこなわなかったことで、当時の人に称揚された。
[[412年]](義熙8年)、游撃将軍の号を受けた。まもなく都督馬頭淮西諸軍事・龍驤将軍・鎮蛮護軍・安豊汝陰二郡太守・[[梁郡|梁国]]内史となり、寿陽に駐屯した。軍功により、安南県男に封じられた。[[414年]](義熙10年)、冠軍将軍・[[高陽郡 (中国)|高陽国]]内史となった。[[臨淮郡]]太守に転じ、領石頭戍事をつとめた。[[415年]](義熙11年)、劉裕が[[司馬休之]]を討つと、向靖は[[呉興郡]]太守となった。[[417年]](義熙13年)、劉裕が北伐して[[後秦]]を討つと、向靖は碻磝に駐屯し、石門・柏谷に進軍した。都督[[北青州]]諸軍事・北青州刺史に任じられた。[[420年]]([[永初 (南朝宋)|永初]]元年)、劉裕が帝位につくと、向靖は功績により曲江県侯に封じられた。太子左衛率に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。[[421年]](永初2年)、在官のまま死去した。享年は59。[[前将軍]]の位を追贈された。向靖は一身の倹約につとめ、田園の経営や商業をおこなわなかったことで、当時の人に称揚された。

2020年8月20日 (木) 00:28時点における版

向 靖(しょう せい、363年 - 421年)は、東晋から南朝宋にかけての軍人は奉仁。小字は弥。本貫河内郡山陽県

経歴

代々京口に居をかまえ、若くして劉裕と交友関係にあった。404年元興3年)、劉裕に従って桓玄を討ち、参建武軍事となった。建康が平定されると、向靖は参鎮軍軍事となり、寧遠将軍の号を加えられた。劉藩孟龍符とともに桓歆・桓石康・石綏を白茅に撃破し、寿陽を攻め落とした。407年義熙3年)、建武将軍・秦郡太守に転じ、北陳留国内史となり、堂邑に駐屯した。桓玄征討の功績により、山陽県五等侯に封じられた。409年(義熙5年)、劉裕の下で南燕に遠征して、臨朐で戦ったが、何カ月も決着がつかなかった。向靖は檀韶らとともに分遣隊を率いて間道から臨朐城を攻めた。向靖は先頭に立って戦い、臨朐城を攻め落とした。ついで広固城を攻撃したが、向靖はまた先頭に立って戦った。410年(義熙6年)、盧循が蔡洲に駐屯し、盧循の任じた豫州刺史の阮賜が姑孰を攻撃してきた。向靖は譙国内史の趙恢らを率いて阮賜を討ち、これを撃破した。向靖は中軍諮議参軍に任じられた。盧循が南方に逃走し、劉裕がこれを追撃すると、向靖はその先鋒をつとめて、南陵・雷池・左里で戦い、いずれも勝利を収めた。凱旋すると、太尉諮議参軍・下邳郡太守に任じられた。

412年(義熙8年)、游撃将軍の号を受けた。まもなく都督馬頭淮西諸軍事・龍驤将軍・鎮蛮護軍・安豊汝陰二郡太守・梁国内史となり、寿陽に駐屯した。軍功により、安南県男に封じられた。414年(義熙10年)、冠軍将軍・高陽国内史となった。臨淮郡太守に転じ、領石頭戍事をつとめた。415年(義熙11年)、劉裕が司馬休之を討つと、向靖は呉興郡太守となった。417年(義熙13年)、劉裕が北伐して後秦を討つと、向靖は碻磝に駐屯し、石門・柏谷に進軍した。都督北青州諸軍事・北青州刺史に任じられた。420年永初元年)、劉裕が帝位につくと、向靖は功績により曲江県侯に封じられた。太子左衛率に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。421年(永初2年)、在官のまま死去した。享年は59。前将軍の位を追贈された。向靖は一身の倹約につとめ、田園の経営や商業をおこなわなかったことで、当時の人に称揚された。

子女

  • 向植(後嗣、過失が多く、爵位を剥奪された)
  • 向楨(兄の後を受けて封を嗣いだが、殺人の罪により、封国を除かれた)
  • 向柳(字は玄季、始興王劉濬の下で征北中兵参軍・始興国内史、南康国相、臧質の乱に参加し、臧質が降伏すると、獄死した)

伝記資料