「劉道産」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
4行目: | 4行目: | ||
太尉諮議参軍の劉簡之の子として生まれた。はじめ輔国参軍をつとめた。[[無錫県]]令に任じられ、有能で知られた。[[義熙]]年間、[[劉裕]]の下で中軍行参軍となり、さらに[[劉道憐]]の下で驃騎参軍となって、父の爵位の[[晋安県]]五等侯を嗣いだ。[[417年]](義熙13年)、[[南海郡 (中国)|南海郡]]の徐道期が[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]の謝欣を殺害して広州を占拠すると、道産は劉道憐の命を受けて広州に向かった。しかし道産が到着する前に、始興相の劉謙之がすでに広州を平定していた。 |
太尉諮議参軍の劉簡之の子として生まれた。はじめ輔国参軍をつとめた。[[無錫県]]令に任じられ、有能で知られた。[[義熙]]年間、[[劉裕]]の下で中軍行参軍となり、さらに[[劉道憐]]の下で驃騎参軍となって、父の爵位の[[晋安県]]五等侯を嗣いだ。[[417年]](義熙13年)、[[南海郡 (中国)|南海郡]]の徐道期が[[広州 (広東省)|広州]][[刺史]]の謝欣を殺害して広州を占拠すると、道産は劉道憐の命を受けて広州に向かった。しかし道産が到着する前に、始興相の劉謙之がすでに広州を平定していた。 |
||
道産は寧遠将軍・巴西梓潼二郡[[太守]]に任じられた。黄公生・任粛之・張石之ら[[ |
道産は寧遠将軍・巴西梓潼二郡[[太守]]に任じられた。黄公生・任粛之・張石之ら[[譙縦]]の残党たちが、侯攬・羅奧らとともに白水氐を招き入れて、反乱を起こそうと計画していた。道産は黄公生ら21家族を処刑して、残りの仲間たちは赦した。[[建康 (都城)|建康]]に召還されて、彭城王[[劉義康]]の下で驃騎中兵参軍となった。[[426年]]([[元嘉 (南朝宋)|元嘉]]3年)11月、都督梁南秦二州諸軍事・寧遠将軍・西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられた。[[429年]](元嘉6年)、道産は[[隴西郡]]と[[宋康郡]]を置くよう上表してこの2郡を領知した。[[430年]](元嘉7年)、建康に召還されて後軍将軍の号を受けた。[[431年]](元嘉8年)、竟陵王[[劉義宣]]の下で左将軍諮議参軍となった。閏月、持節・都督雍梁南秦三州[[荊州]]之南陽竟陵順陽襄陽新野隨六郡諸軍事・寧遠将軍・寧蛮校尉・[[雍州]]刺史・[[襄陽郡 (中国)|襄陽郡]]太守に任じられた。道産の統治は善政で知られ、諸民族も帰順する者が相次ぎ、民衆も生業を楽しんで、「襄陽楽歌」が作られたとされる。 |
||
[[436年]](元嘉13年)、輔国将軍の号を受けた。[[442年]](元嘉19年)、死去した。征虜将軍の位を追贈された。[[諡]]は襄侯といった。 |
[[436年]](元嘉13年)、輔国将軍の号を受けた。[[442年]](元嘉19年)、死去した。征虜将軍の位を追贈された。[[諡]]は襄侯といった。 |
2020年8月20日 (木) 00:26時点における版
劉道産(りゅう どうさん、生年不詳 - 442年)は、東晋から南朝宋にかけての軍人・政治家。本貫は彭城郡呂県。劉康祖の従兄。
経歴
太尉諮議参軍の劉簡之の子として生まれた。はじめ輔国参軍をつとめた。無錫県令に任じられ、有能で知られた。義熙年間、劉裕の下で中軍行参軍となり、さらに劉道憐の下で驃騎参軍となって、父の爵位の晋安県五等侯を嗣いだ。417年(義熙13年)、南海郡の徐道期が広州刺史の謝欣を殺害して広州を占拠すると、道産は劉道憐の命を受けて広州に向かった。しかし道産が到着する前に、始興相の劉謙之がすでに広州を平定していた。
道産は寧遠将軍・巴西梓潼二郡太守に任じられた。黄公生・任粛之・張石之ら譙縦の残党たちが、侯攬・羅奧らとともに白水氐を招き入れて、反乱を起こそうと計画していた。道産は黄公生ら21家族を処刑して、残りの仲間たちは赦した。建康に召還されて、彭城王劉義康の下で驃騎中兵参軍となった。426年(元嘉3年)11月、都督梁南秦二州諸軍事・寧遠将軍・西戎校尉・梁南秦二州刺史に任じられた。429年(元嘉6年)、道産は隴西郡と宋康郡を置くよう上表してこの2郡を領知した。430年(元嘉7年)、建康に召還されて後軍将軍の号を受けた。431年(元嘉8年)、竟陵王劉義宣の下で左将軍諮議参軍となった。閏月、持節・都督雍梁南秦三州荊州之南陽竟陵順陽襄陽新野隨六郡諸軍事・寧遠将軍・寧蛮校尉・雍州刺史・襄陽郡太守に任じられた。道産の統治は善政で知られ、諸民族も帰順する者が相次ぎ、民衆も生業を楽しんで、「襄陽楽歌」が作られたとされる。
436年(元嘉13年)、輔国将軍の号を受けた。442年(元嘉19年)、死去した。征虜将軍の位を追贈された。諡は襄侯といった。
子女
子にがあった。