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「陳公他」の版間の差分

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'''陳公他'''(ちんこうた、[[紀元前754年]] - [[紀元前706年]])は、[[春秋時代]]の[[陳 (春秋)|陳]]の君主(在位前707年1月 - 前706年8月)。姓は媯、名は他、またの名を佗といい、また五父と称した。『[[史記]]』では厲公とされるが、これは誤りである<ref>『史記』陳杞世家では佗が厲公として記述されている。『春秋左氏伝』では陳佗(五父)には諡号が与えられておらず、厲公とは甥の[[利公 (陳)|躍]]のことを指している。『[[史記索隠]]』陳杞世家所引[[ショウ周|譙周]]や『史記会注考証』陳杞世家所引[[梁玉縄]]が指摘するように、陳の厲公・利公をめぐる『史記』の記述には誤りが多いとみなされている。</ref>。
'''陳公他'''(ちんこうた、[[紀元前754年]] - [[紀元前706年]])は、[[春秋時代]]の[[陳 (春秋)|陳]]の君主(在位前707年1月 - 前706年8月)。姓は媯、名は他、またの名を佗といい、また五父と称した。『[[史記]]』では厲公とされるが、これは誤りである<ref>『史記』陳杞世家では佗が厲公として記述されている。『春秋左氏伝』では陳佗(五父)には諡号が与えられておらず、厲公とは甥の[[利公 (陳)|躍]]のことを指している。『[[史記索隠]]』陳杞世家所引[[譙周]]や『史記会注考証』陳杞世家所引[[梁玉縄]]が指摘するように、陳の厲公・利公をめぐる『史記』の記述には誤りが多いとみなされている。</ref>。


紀元前754年、[[文公 (陳)|文公]]と[[蔡]]の公女のあいだの子として生まれた<ref>『史記』の記述によるが、梁玉縄は蔡女を母とする記述を誤りとみなしている。</ref>。[[紀元前716年]]、陳と[[鄭]]が講和し、陳他は鄭に赴いて盟を交わした。[[紀元前707年]]1月に兄の[[桓公 (陳)|桓公]]が病に倒れると、内乱が起こり、陳他は太子の免を殺害して、代わって太子となった。まもなく桓公が亡くなると、陳公として即位した。蔡で淫行をおこなっていて、紀元前706年8月に蔡の人に殺害された。甥の[[利公 (陳)|躍]]が陳公として即位した。
紀元前754年、[[文公 (陳)|文公]]と[[蔡]]の公女のあいだの子として生まれた<ref>『史記』の記述によるが、梁玉縄は蔡女を母とする記述を誤りとみなしている。</ref>。[[紀元前716年]]、陳と[[鄭]]が講和し、陳他は鄭に赴いて盟を交わした。[[紀元前707年]]1月に兄の[[桓公 (陳)|桓公]]が病に倒れると、内乱が起こり、陳他は太子の免を殺害して、代わって太子となった。まもなく桓公が亡くなると、陳公として即位した。蔡で淫行をおこなっていて、紀元前706年8月に蔡の人に殺害された。甥の[[利公 (陳)|躍]]が陳公として即位した。

2020年8月20日 (木) 00:24時点における版

陳公他(ちんこうた、紀元前754年 - 紀元前706年)は、春秋時代の君主(在位前707年1月 - 前706年8月)。姓は媯、名は他、またの名を佗といい、また五父と称した。『史記』では厲公とされるが、これは誤りである[1]

紀元前754年、文公の公女のあいだの子として生まれた[2]紀元前716年、陳とが講和し、陳他は鄭に赴いて盟を交わした。紀元前707年1月に兄の桓公が病に倒れると、内乱が起こり、陳他は太子の免を殺害して、代わって太子となった。まもなく桓公が亡くなると、陳公として即位した。蔡で淫行をおこなっていて、紀元前706年8月に蔡の人に殺害された。甥のが陳公として即位した。

脚注

  1. ^ 『史記』陳杞世家では佗が厲公として記述されている。『春秋左氏伝』では陳佗(五父)には諡号が与えられておらず、厲公とは甥ののことを指している。『史記索隠』陳杞世家所引譙周や『史記会注考証』陳杞世家所引梁玉縄が指摘するように、陳の厲公・利公をめぐる『史記』の記述には誤りが多いとみなされている。
  2. ^ 『史記』の記述によるが、梁玉縄は蔡女を母とする記述を誤りとみなしている。

参考文献