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「董厥」の版間の差分

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董厥と諸葛瞻は、姜維が外征により国力を疲弊させていると考え[[劉禅]]に上奏し、姜維の軍権を剥奪して[[益州]][[刺史]]に転任させ、国内に召還するよう要請することを考えたという([[孫盛]]著『異同記』)。
董厥と諸葛瞻は、姜維が外征により国力を疲弊させていると考え[[劉禅]]に上奏し、姜維の軍権を剥奪して[[益州]][[刺史]]に転任させ、国内に召還するよう要請することを考えたという([[孫盛]]著『異同記』)。


[[263年]]、[[魏 (三国)|魏]]が大軍を率い侵攻して来ると、董厥は[[張翼]]・[[廖化]]とともにその迎撃に向かった(「後主伝」)。また董厥は、張翼とともに陽安関の入り口にも向かった(「姜維伝」)。すると漢寿まで来たところで、[[陰平郡|陰平]]より敗走してきた姜維・廖化と合流したため、剣閣に立て籠って堅守することにした(「姜維伝」)。しかし[[成都]]を目指した魏軍は、間道を伝って別方面より江油と[[綿竹]]を落し、諸葛瞻を戦死させた(「姜維伝」・「諸葛亮伝」)。このため劉禅は、[[ショウ周|譙周]]の勧めで降伏を決断した([[蜀漢の滅亡]])(「譙周伝」)。その後、董厥は姜維らとともに[[鍾会]]軍へ降伏し、成都に戻った。
[[263年]]、[[魏 (三国)|魏]]が大軍を率い侵攻して来ると、董厥は[[張翼]]・[[廖化]]とともにその迎撃に向かった(「後主伝」)。また董厥は、張翼とともに陽安関の入り口にも向かった(「姜維伝」)。すると漢寿まで来たところで、[[陰平郡|陰平]]より敗走してきた姜維・廖化と合流したため、剣閣に立て籠って堅守することにした(「姜維伝」)。しかし[[成都]]を目指した魏軍は、間道を伝って別方面より江油と[[綿竹]]を落し、諸葛瞻を戦死させた(「姜維伝」・「諸葛亮伝」)。このため劉禅は、[[譙周]]の勧めで降伏を決断した([[蜀漢の滅亡]])(「譙周伝」)。その後、董厥は姜維らとともに[[鍾会]]軍へ降伏し、成都に戻った。


[[264年]]春、劉禅は一家を挙げて[[洛陽]]へ移住することになった(「後主伝」)。董厥も樊建とともに洛陽へ赴き[[相国]]参軍となり、その年の秋には樊建とともに散騎常侍を兼任し、益州民心の鎮撫にあたったという。なお、劉禅に従った蜀の旧臣の多くは列侯されたが、その中に樊建の名はあるが董厥の名はない(「後主伝」)。
[[264年]]春、劉禅は一家を挙げて[[洛陽]]へ移住することになった(「後主伝」)。董厥も樊建とともに洛陽へ赴き[[相国]]参軍となり、その年の秋には樊建とともに散騎常侍を兼任し、益州民心の鎮撫にあたったという。なお、劉禅に従った蜀の旧臣の多くは列侯されたが、その中に樊建の名はあるが董厥の名はない(「後主伝」)。

2020年8月20日 (木) 00:23時点における版

董厥
蜀漢
南郷侯・輔国大将軍
出生 生年不詳
荊州義陽郡
死去 没年不詳
拼音 Dǒng Jué
龔襲
主君 劉禅
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董 厥(とう けつ、生没年不詳)は、中国三国時代の政治家。蜀漢に仕えた。字は龔襲荊州義陽郡の人(「諸葛亮伝」が引く『晋百官表』)。三国志蜀志に独立した伝はないが、「諸葛亮伝」に記録がある。

生涯

諸葛亮が丞相となったとき丞相府の令史となり、諸葛亮から思慮深く過不足がない人物という評価を得た。その後、主簿に転任した。

諸葛亮の死後、徐々に昇進を果たし尚書僕射となった。やがて陳祗の後任として尚書令となる。後、樊建に尚書令を譲り、輔国大将軍・大将軍平台事となった。

陳祗の死後、258年に平尚書事となった。261年諸葛瞻が平尚書事となり、董厥・樊建と共に朝政を統べる事となった。このときの肩書きは輔国大将軍・南郷侯となっている。

彼等の上席である姜維は戦いで外地にあったため、黄皓が政治の実権を握るようになっていた。董厥達はお互いが庇い合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。董厥は樊建と違い、諸葛瞻とともに黄皓と私的な親交を交すようになっていたという。

董厥と諸葛瞻は、姜維が外征により国力を疲弊させていると考え劉禅に上奏し、姜維の軍権を剥奪して益州刺史に転任させ、国内に召還するよう要請することを考えたという(孫盛著『異同記』)。

263年が大軍を率い侵攻して来ると、董厥は張翼廖化とともにその迎撃に向かった(「後主伝」)。また董厥は、張翼とともに陽安関の入り口にも向かった(「姜維伝」)。すると漢寿まで来たところで、陰平より敗走してきた姜維・廖化と合流したため、剣閣に立て籠って堅守することにした(「姜維伝」)。しかし成都を目指した魏軍は、間道を伝って別方面より江油と綿竹を落し、諸葛瞻を戦死させた(「姜維伝」・「諸葛亮伝」)。このため劉禅は、譙周の勧めで降伏を決断した(蜀漢の滅亡)(「譙周伝」)。その後、董厥は姜維らとともに鍾会軍へ降伏し、成都に戻った。

264年春、劉禅は一家を挙げて洛陽へ移住することになった(「後主伝」)。董厥も樊建とともに洛陽へ赴き相国参軍となり、その年の秋には樊建とともに散騎常侍を兼任し、益州民心の鎮撫にあたったという。なお、劉禅に従った蜀の旧臣の多くは列侯されたが、その中に樊建の名はあるが董厥の名はない(「後主伝」)。

小説『三国志演義』では、蜀滅亡後、劉禅が洛陽へ向かうときに病気となり、廖化とともに憂死したことになっている。