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[[263年]]、[[魏 (三国)|魏]]が蜀漢に侵攻してきた際、[[成都市|成都]]の廟堂にて[[劉禅]]が[[光禄大夫]][[譙周]]の発言を受け入れて降伏しようとすると、劉諶は徹底抗戦を主張して反対したが容れられず、[[黄皓]]らによって宮中からしめ出されてしまった。帰宅後、劉諶は妻子を殺害し、その首を携え祖父の昭烈皇帝([[劉備]])の[[廟]]前で、己の首を刎ねて自害した<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書後主伝、同注引『漢晋春秋』、蜀書二主妃子伝。</ref>。 |
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小説『三国志演義』では、妻の姓は崔。妻と数人の王子は自害したという設定になっている。 |
小説『三国志演義』では、妻の姓は崔。妻と数人の王子は自害したという設定になっている。 |
2020年8月20日 (木) 00:23時点における版
劉諶 | |
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劉諶(成都武侯祠) | |
蜀漢 北地王 | |
出生 | 生年不明 |
死去 |
炎興元年(263年) 成都 |
拼音 | Liú Chén |
主君 | 劉禅 |
劉 諶(りゅう しん/りゅう じん、? - 263年)は、三国時代の蜀漢蜀の皇族。後主劉禅の五男。蜀漢初代皇帝である先主劉備の孫。北地王に封じられていた。字は不詳。
略伝
263年、魏が蜀漢に侵攻してきた際、成都の廟堂にて劉禅が光禄大夫譙周の発言を受け入れて降伏しようとすると、劉諶は徹底抗戦を主張して反対したが容れられず、黄皓らによって宮中からしめ出されてしまった。帰宅後、劉諶は妻子を殺害し、その首を携え祖父の昭烈皇帝(劉備)の廟前で、己の首を刎ねて自害した[1]。
小説『三国志演義』では、妻の姓は崔。妻と数人の王子は自害したという設定になっている。