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{{出典の明記|date=2014年3月5日 (水) 04:02 (UTC)|ソートキー=沖縄人1788年没しよう てつ}} |
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'''尚 哲'''(しょう てつ、[[乾隆]]24年[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]([[1759年]][[5月31日]])- 乾隆53年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]([[1788年]][[9月19日]]))は[[琉球]][[第二尚氏王統]]14代[[尚穆王]]の長男。童名を思徳金といい、[[世子]]であり中城王子を称した。父王:尚穆より先に薨じてしまい、王位を継ぐことはなかったが、次男:[[尚温王|尚温]]が15代王になると、王号を追贈された。また、四男:[[尚灝王|尚灝]]ものち[[践祚]]し、17代王となった。 |
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『[[中山世譜]]』に学問を好む心の広い人物であったと記されている。 |
『[[中山世譜]]』に学問を好む心の広い人物であったと記されている。 |
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**三男:[[尚洽]]・真蒲戸金王子(早世) |
**三男:[[尚洽]]・真蒲戸金王子(早世) |
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**次女:仲井真翁主(童名・思亀樽。向道方・[[譜久山朝英|譜久山親雲上朝英]]に嫁ぐ) |
**次女:仲井真翁主(童名・思亀樽。向道方・[[譜久山朝英|譜久山親雲上朝英]]に嫁ぐ) |
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**四男:[[尚 |
**四男:[[尚灝王|尚灝]](第17代国王) |
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== 経歴(月日は旧暦) == |
== 経歴(月日は旧暦) == |
2020年8月19日 (水) 07:22時点における版
尚 哲(しょう てつ、乾隆24年5月6日(1759年5月31日)- 乾隆53年8月20日(1788年9月19日))は琉球第二尚氏王統14代尚穆王の長男。童名を思徳金といい、世子であり中城王子を称した。父王:尚穆より先に薨じてしまい、王位を継ぐことはなかったが、次男:尚温が15代王になると、王号を追贈された。また、四男:尚灝ものち践祚し、17代王となった。
『中山世譜』に学問を好む心の広い人物であったと記されている。
歴代王が眠る墓所、玉陵に葬られた。
系譜
父・尚穆王の長男として生まれる(母は淑徳)。妃とのあいだに四男二女をもうけた。長男と三男は早世し、次男・尚温が父王なきあとに践祚し15代王となった。のち16代王の尚成が幼死すると、四男・尚灝が王位を継ぎ、17代国王となった。
経歴(月日は旧暦)
- 1759年(乾隆24)5月6日 生まれる。
- 1768年(乾隆33)9月6日 中城間切総地頭となる(→中城王子)。
- 1771年(乾隆36)3月18日 久米具志川間切を加領される。
- 1773年(乾隆38)6月5日 朝覲のため那覇港を出港。薩摩藩へ赴く。
- 1774年(乾隆39)3月19日 公務を竣え、鹿児島を出発。
- ?月9日 帰国。
- 12月14日 恩納間切を加領される。
- 1781年(乾隆46)5月3日 長男:尚法が生まれる。
- 1784年(乾隆49)2月1日 次男:尚温が生まれる。
- 1785年(乾隆50)2月5日 三男:尚洽・真蒲戸金王子が生まれる。
- 1787年(乾隆52)5月29日 四男:尚灝が生まれる。
- 1788年(乾隆53)8月20日 亡くなる(享年30)。