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『[[呉越春秋]]』越王無余伝によると、[[禹]]が四瀆(長江・黄河・済水・淮水のこと)を巡った際に[[伯益]]と共にこれを補佐したという<ref>『[[呉越春秋]]』越王無余伝「遂巡行四瀆。與益夔共謀」</ref>。 |
『[[呉越春秋]]』越王無余伝によると、[[禹]]が四瀆(長江・黄河・済水・淮水のこと)を巡った際に[[伯益]]と共にこれを補佐したという<ref>『[[呉越春秋]]』越王無余伝「遂巡行四瀆。與益夔共謀」</ref>。 |
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『春秋左氏伝』によると、[[有仍氏]]の[[玄妻]]を娶り、二人の間には[[伯封]]という息子が生まれたが、[[ |
『春秋左氏伝』によると、[[有仍氏]]の[[玄妻]]を娶り、二人の間には[[伯封]]という息子が生まれたが、[[羿|后羿]]によって殺され、夔家の祭祀が絶えたという<ref> 『春秋左氏伝』昭公二十八年「昔有仍氏生女、黰黒而甚美、光可以鑑。名曰玄妻。楽正后夔取之、生伯封。実有豕心、貪惏無饜、忿纇無期、謂之封豕。有窮后羿滅之、夔是以不祀」</ref>。 |
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『[[路史]]』国名紀によると[[顓頊]]の末裔で、[[巫山県|巫山]]に封じられ、熊姓を名乗ったという。しかし、同名の異なる人物である可能性もある。 |
『[[路史]]』国名紀によると[[顓頊]]の末裔で、[[巫山県|巫山]]に封じられ、熊姓を名乗ったという。しかし、同名の異なる人物である可能性もある。 |
2020年8月18日 (火) 08:39時点における版
后夔(こうき)は、夏王朝の頃に存在したとされる古代中国の人物。『春秋左氏伝』によると楽正の典官であったとされる[1]。
『呉越春秋』越王無余伝によると、禹が四瀆(長江・黄河・済水・淮水のこと)を巡った際に伯益と共にこれを補佐したという[2]。
『春秋左氏伝』によると、有仍氏の玄妻を娶り、二人の間には伯封という息子が生まれたが、后羿によって殺され、夔家の祭祀が絶えたという[3]。
『路史』国名紀によると顓頊の末裔で、巫山に封じられ、熊姓を名乗ったという。しかし、同名の異なる人物である可能性もある。
『春秋左氏伝校本』には「夔舜典楽之君長」とある。舜の時代の「夔」と同一人物ではないだろうが、何かしらの関係があったと考えられていたことがわかる。