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=== 建国後 ===
=== 建国後 ===
[[File:Chen geng2.jpg|thumb|300px|1955年、[[洪学智]]、[[蕭華]]、粟裕、[[陳コウ (軍人)|陳賡]](左から右へ)]]
[[File:Chen geng2.jpg|thumb|300px|1955年、[[洪学智]]、[[蕭華]]、粟裕、[[陳賡]](左から右へ)]]
1951年、人民解放軍副総参謀長。1954年、総参謀長。1955年、大将の階級を授与された。第1回から第3回の国防委員会委員。
1951年、人民解放軍副総参謀長。1954年、総参謀長。1955年、大将の階級を授与された。第1回から第3回の国防委員会委員。



2020年8月18日 (火) 00:00時点における版

粟 裕
粟 裕
生誕 1907年8月10日
清の旗 湖南省会同坪村郷 楓木樹脚村
死没 (1984-02-05) 1984年2月5日(76歳没)
中華人民共和国の旗 中国北京
所属組織 中国人民解放軍陸軍
軍歴 1927 - 1982
最終階級 陸軍大将
指揮 華中野戦軍司令員
華東野戦軍司令員代理
第3野戦軍副司令員
総参謀長
戦闘 豫東戦役
済南戦役
淮海戦役
渡江戦役
上海戦役
除隊後 中共中央顧問委員会常務委員
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粟裕
職業: 軍人、政治家
各種表記
繁体字 粟裕
簡体字 粟裕
拼音 Sù Yù
和名表記: ぞく ゆう
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粟 裕(ぞく ゆう)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍大将トン族

遊撃戦(ゲリラ戦)の理論家として知られ、国共内戦時の主要戦役を指揮した。戦後は、総参謀長等を歴任。1958年に失脚し、一時閑職に回されたが、文化大革命中に国務院の閣僚を務めた。死後10年たった1994年12月、 36年ぶりに、党中央軍事委員会によって名誉回復がなされた。

生涯

若き日

1924年春、常徳に移り、湖南省立第二師範学校に入学し、中国共産党が指導する学生運動に参加した。1926年11月、中国共産主義青年団に加入。1927年5月、国民革命軍第24師(師長葉挺)に入隊し、教導班長に任命された。同年6月、中国共産党に入党。8月、南昌起義に参加し、警衛隊班長、南昌起義革命委員会の委員となった。広東潮(安)汕(頭)地区での失敗後、朱徳陳毅に従い閩粤贛湘辺を転戦し、10月、連(中隊)政治指導員に任命された。

1928年、湘南起義参加後、井岡山に移る。中国工農紅軍の連長、営(大隊)長、団(連隊)長、師長、紅4軍参謀長、紅7軍団参謀長等を歴任する。井岡山闘争に参加し、贛南、閩西、中央ソビエト区第1次~第5次「囲剿」を転戦した。

1934年7月、紅軍北上抗日先遣隊参謀長に任命され、閩浙贛皖辺を転戦した。1935年1月、劉英と共に約500人を率いて封鎖線を突破して浙南に至り、挺進師師長、閩浙軍区司令員に任命され、国民党の支配地に浙南遊撃根据地を開設した。党上級組織との連絡が失われた情況下において、独立的に遊撃戦を展開した。「敵進我進」の指導方針を採択して、国民党の数次に渡る「進剿」と二次に渡る総兵力40個連隊の大規模「囲剿」を挫折させ、浙南遊撃根据地を発展させた。

日中戦争

日中戦争勃発後、1938年1月、閩浙辺において、遊撃戦術を講義し、抗日遊撃戦争の戦略的意義を説いた。4月、新四軍第2支隊副司令員、先遣支隊司令員に任命され、江南の敵後方に挺進した。第2支隊の指揮を取り、南京、蕪湖、溧水地区において日本軍に抵抗した。1939年8月、新四軍江南指揮部副指揮に任命され、陳毅と共に新四軍の東進北上を実行し、独立的に遊撃戦を展開しつつ、蘇南抗日根据地を開設した。1940年7月、蘇北に挺進し、新四軍蘇北指揮部副指揮兼参謀長に任命された。同年10月、陳毅が指揮する黄橋戦役を助力し、4倍の国民党軍の進攻を撃退し、蘇北抗日根据地を発展させた。

皖南事変後、新四軍第1師師長(後に政治委員を兼任)、蘇中軍区司令員兼政治委員、中共蘇中区委員会書記を歴任。遊撃戦と要点争奪を結合した作戦方針を制定し、水路の発達した平原水網地区で水上遊撃戦を展開しつつ、蘇中抗日根据地を確立した。1944年3月、日本軍に対して局地反攻を開始し、車橋戦役を指揮した。同年12月、第1師主力を率いて長江を渡河し、蘇浙軍区司令員兼政治委員に任命され、後に中共蘇浙区委員会書記を兼任した。蘇南、浙東抗日根据地を発展させ、浙西抗日根据地を開設した。1945年、天目山区において国民党軍に対する3次の自衛反撃戦を指揮した。

国共内戦

1947年、粟裕(左から2人目)


日本降伏後、江北に戻る。1945年10月、華中軍区副司令員、華中野戦軍司令員に任命。高郵戦役と隴海線徐(州)海(州)段戦役を指揮し、投降を拒否した汪兆銘軍約2万人を撃滅し、国民党軍の進攻を内戦作戦で迎える有利な条件を創出すると共に、華中、山東解放区の連絡を達成した。

1946年6月、国共内戦再開後、中共中央は、粟裕の建議を採択して、太行、山東、華中3支軍を同時に外線に出撃させる計画を改変し、華中野戦軍主力に蘇中で内線作戦を行わせることに同意した。7月から、華中野戦軍主力約3万人を指揮し、12万の米軍装備の国民党軍と交戦、七戦七捷し、1ヵ月半で約5万3千人の敵軍を撃滅した。中国共産党中央軍事委員会は、蘇中作戦の経験を全軍に通報し、これに見習うよう各区に要求した。10月、山東、華中野戦軍の会合後、中共中央の決定に基づき、戦役の指揮を担任した。

1947年1月、華東野戦軍(のちの第3野戦軍)副司令員となり、戦役の指揮を担任した。内線作戦の条件下において、前後して宿北、魯南、莱蕪、泰蒙、孟良崮等の戦役を指揮し、国民党精鋭の第74師を含む7個軍と1個快速縦隊を撃滅した。戦略攻勢転移後、陳毅と共に華東野戦軍主力を率いて魯西南を挺進し、晋冀魯豫野戦軍主力の大別山南下を援護した。沙土集戦役を指揮して、敵1個師団を撃滅し、敵に山東と大別山区から4個師団の抽出を余儀なくさせ、華東戦区の内線から外線、戦略防勢から戦略攻勢への転移を実現し、豫皖蘇辺区に挺進した。

軍事・政治情勢の展開を見て取り、1948年1月と4月、3個縦隊を南進させ、黄淮地区に兵力を集中して大撃滅戦を行うことを建議した。5月、陳毅が中原の工作に異動したため、粟裕は、華東野戦軍司令員代理兼政治委員代理に任命された。6月、豫皖蘇軍区司令員を兼任。6月~7月、華東野戦軍8個縦隊、中原野戦軍(のちの第2野戦軍)2個縦隊を指揮して豫東戦役を行い、敵約9万人を撃滅し、中原、華東の戦略体勢を一変させた。9月、済南戦役を指揮し、済南を攻略し、約10万人を撃滅した。9月24日、淮海戦役の発動を建議し、中央軍事委員会の批准を経て、11月6日、淮海戦役を発起した。11月8日、華東野戦軍副参謀長張震と連名で、南線国民党軍主力を徐州とその周辺に抑止して、逐次撃滅することを建議した。戦役中、中共淮海前線総前委成員となり、華東野戦軍17個縦隊の作戦を直接指揮した。

1949年1月、第3野戦軍副司令員兼第二副政治委員(司令員、政治委員職務を代行)。渡江戦役中、皖南郎渓、広徳山区において敵5個軍を追撃し、南京杭州を解放した。5月、上海戦役を指揮し、上海郊外で敵主力8個軍を撃滅し、上海の戦災を回避した。前後して、上海市軍管会副主任、南京市軍管会主任、南京市市長、華東軍政委員会副主席を兼任した。

建国後

1955年、洪学智蕭華、粟裕、陳賡(左から右へ)

1951年、人民解放軍副総参謀長。1954年、総参謀長。1955年、大将の階級を授与された。第1回から第3回の国防委員会委員。

1958年の軍事委員会拡大会議において批判され、長期間、閑職に回された。同年、国防部副部長兼軍事科学院副院長に異動。1972年、軍事科学院第一政治委員。文化大革命中、国務院の閣僚に任ぜられ、周恩来の指導の下、鉄道、交通、郵政、港湾建設、造船等を分掌した。中共第7回中央候補委員、第8回~第11回中央委員。1967~1968年、1975~1982年、中央軍事委員会常務委員。1980年、全人大常務委員会副委員長に当選。1982年、中共中央顧問委員会常務委員に当選。1984年2月5日、北京で死去。

著作

  • 「対未来反侵略戦争初期作戦方法数個問題的探討」(1979年)
  • 「粟裕戦争回顧録」(1988年)
  • 「粟裕軍事文集」(1989年)

外部リンク

  中国人民解放軍
先代
聶栄臻(代行)
総参謀長
1954年 - 1958年
次代
黄克誠