コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「楊爽」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 祖姓・高姓の人物記事の改名に伴うリンク修正依頼 (高熲) - log
4行目: 4行目:
[[楊忠]]の子として生まれた。[[北周]]のとき、父の軍功により、まだ赤子でありながら同安郡公に封ぜられた。6歳のときに楊忠が死去すると、楊忠の正妻の呂苦桃に養育され、楊堅の諸弟の中でも特に寵愛された。17歳のとき内史上士となった。[[580年]]、楊堅が北周の政権を掌握すると、楊爽は[[大将軍]]・秦州総管に任ぜられた。赴任する前に、蒲州刺史に転じ、位は柱国に進んだ。[[581年]]、隋が建国されると、衛王に立てられた。まもなく雍州牧に転じ、左右将軍を兼ねた。右領軍大将軍に転じ、并州総管を兼ねた。[[582年]]、位は上柱国に進み、涼州総管に転じた。
[[楊忠]]の子として生まれた。[[北周]]のとき、父の軍功により、まだ赤子でありながら同安郡公に封ぜられた。6歳のときに楊忠が死去すると、楊忠の正妻の呂苦桃に養育され、楊堅の諸弟の中でも特に寵愛された。17歳のとき内史上士となった。[[580年]]、楊堅が北周の政権を掌握すると、楊爽は[[大将軍]]・秦州総管に任ぜられた。赴任する前に、蒲州刺史に転じ、位は柱国に進んだ。[[581年]]、隋が建国されると、衛王に立てられた。まもなく雍州牧に転じ、左右将軍を兼ねた。右領軍大将軍に転じ、并州総管を兼ねた。[[582年]]、位は上柱国に進み、涼州総管に転じた。


その年、楊爽は行軍元帥となり、7万の兵を率いて[[突厥]]に備えた。平涼に進出したが、突厥軍と出会うことなく帰還した。[[583年]]、大挙して北伐し、[[元帥]]となった。河間王[[楊弘 (河間王)|楊弘]]・[[豆盧勣]]・[[竇栄定]]・[[高ケイ|高熲]]・[[虞慶則]]らの諸将が道を別にして進攻し、みな楊爽の節度を受けた。楊爽みずからも李充節ら4将を率いて朔州に進出し、[[沙鉢略可汗]]と白道で遭遇すると、これを撃破した。沙鉢略可汗は重傷を負って逃走した。文帝は戦勝を喜んで、楊爽に梁安県の1000戸を食邑として与えた。[[586年]]、再び元帥となり、15万の兵を率いて、合川に進出した。突厥軍が逃走したので、帰還した。[[587年]]、召還されて納言となった。
その年、楊爽は行軍元帥となり、7万の兵を率いて[[突厥]]に備えた。平涼に進出したが、突厥軍と出会うことなく帰還した。[[583年]]、大挙して北伐し、[[元帥]]となった。河間王[[楊弘 (河間王)|楊弘]]・[[豆盧勣]]・[[竇栄定]]・[[高熲]]・[[虞慶則]]らの諸将が道を別にして進攻し、みな楊爽の節度を受けた。楊爽みずからも李充節ら4将を率いて朔州に進出し、[[沙鉢略可汗]]と白道で遭遇すると、これを撃破した。沙鉢略可汗は重傷を負って逃走した。文帝は戦勝を喜んで、楊爽に梁安県の1000戸を食邑として与えた。[[586年]]、再び元帥となり、15万の兵を率いて、合川に進出した。突厥軍が逃走したので、帰還した。[[587年]]、召還されて納言となった。


しばらくして、楊爽が病床に伏したので、文帝は巫者の薛栄宗を派遣して見させた。薛栄宗は多くの鬼が病の原因であると見立てた。楊爽が側近たちに鬼を祓わせると、数日後に薛栄宗は鬼物に襲われ、階下に逃げて倒れ死去したと伝える。その夜のうちに楊爽は死去した。享年は25。[[太尉]]・冀州刺史の位を追贈された。
しばらくして、楊爽が病床に伏したので、文帝は巫者の薛栄宗を派遣して見させた。薛栄宗は多くの鬼が病の原因であると見立てた。楊爽が側近たちに鬼を祓わせると、数日後に薛栄宗は鬼物に襲われ、階下に逃げて倒れ死去したと伝える。その夜のうちに楊爽は死去した。享年は25。[[太尉]]・冀州刺史の位を追贈された。

2020年8月17日 (月) 14:18時点における版

楊 爽(よう そう、563年 - 587年)は、中国皇族。衛昭王。文帝楊堅の異母弟。は師仁。小字は明達。

経歴

楊忠の子として生まれた。北周のとき、父の軍功により、まだ赤子でありながら同安郡公に封ぜられた。6歳のときに楊忠が死去すると、楊忠の正妻の呂苦桃に養育され、楊堅の諸弟の中でも特に寵愛された。17歳のとき内史上士となった。580年、楊堅が北周の政権を掌握すると、楊爽は大将軍・秦州総管に任ぜられた。赴任する前に、蒲州刺史に転じ、位は柱国に進んだ。581年、隋が建国されると、衛王に立てられた。まもなく雍州牧に転じ、左右将軍を兼ねた。右領軍大将軍に転じ、并州総管を兼ねた。582年、位は上柱国に進み、涼州総管に転じた。

その年、楊爽は行軍元帥となり、7万の兵を率いて突厥に備えた。平涼に進出したが、突厥軍と出会うことなく帰還した。583年、大挙して北伐し、元帥となった。河間王楊弘豆盧勣竇栄定高熲虞慶則らの諸将が道を別にして進攻し、みな楊爽の節度を受けた。楊爽みずからも李充節ら4将を率いて朔州に進出し、沙鉢略可汗と白道で遭遇すると、これを撃破した。沙鉢略可汗は重傷を負って逃走した。文帝は戦勝を喜んで、楊爽に梁安県の1000戸を食邑として与えた。586年、再び元帥となり、15万の兵を率いて、合川に進出した。突厥軍が逃走したので、帰還した。587年、召還されて納言となった。

しばらくして、楊爽が病床に伏したので、文帝は巫者の薛栄宗を派遣して見させた。薛栄宗は多くの鬼が病の原因であると見立てた。楊爽が側近たちに鬼を祓わせると、数日後に薛栄宗は鬼物に襲われ、階下に逃げて倒れ死去したと伝える。その夜のうちに楊爽は死去した。享年は25。太尉・冀州刺史の位を追贈された。

子の楊集が後を嗣いだ。

子女

  • 楊集 - 字は文会。初封は遂安王。衛王を嗣いだ。楊素の告発を受けて流刑となった。

伝記資料

  • 隋書』巻四十四 列伝第九
  • 北史』巻七十一 列伝第五十九