「薛道衡」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
5行目: | 5行目: | ||
6歳の時に父の薛孝通を失うが、学問にはげみ、13歳の時『[[春秋左氏伝]]』を読んで、[[鄭]]の宰相[[子産]]の功績を称える「国僑の賛」を作り、人々からその出来映えを賞賛された。はじめ[[北斉]]に仕え、[[武成帝]]・[[後主 (北斉)|後主]]の時には[[北周]]や[[陳 (南朝)|陳]]の使者の応対、詔勅の起草などをつかさどり、文林館待詔の時には、[[盧思道]]・[[李徳林]]らと親しく交際し、彼らと名声を等しくした。北斉が滅びると北周・隋に仕えた。[[584年]]、陳に使者として赴くと、[[後主 (陳)|後主]]ら江南の人々にその詩文を賞賛された。 |
6歳の時に父の薛孝通を失うが、学問にはげみ、13歳の時『[[春秋左氏伝]]』を読んで、[[鄭]]の宰相[[子産]]の功績を称える「国僑の賛」を作り、人々からその出来映えを賞賛された。はじめ[[北斉]]に仕え、[[武成帝]]・[[後主 (北斉)|後主]]の時には[[北周]]や[[陳 (南朝)|陳]]の使者の応対、詔勅の起草などをつかさどり、文林館待詔の時には、[[盧思道]]・[[李徳林]]らと親しく交際し、彼らと名声を等しくした。北斉が滅びると北周・隋に仕えた。[[584年]]、陳に使者として赴くと、[[後主 (陳)|後主]]ら江南の人々にその詩文を賞賛された。 |
||
[[592年]]、[[蘇威]]とともに人事を濫用していると讒言され[[嶺南 (中国)|嶺南]]に左遷された。当時[[揚州 (江蘇省)|揚州]]にいた晋王[[煬帝|楊広]](後の煬帝)は薛道衡を自分の幕僚に招こうと人づてに誘ったが、薛道衡は気が進まず、揚州を通らずに任地に赴いた。これにより楊広は秘かに薛道衡を恨んだ。まもなく召還の詔が出て、数年後に内史侍郎となり、上儀同三司を加えられた。薛道衡の文才は[[楊堅|文帝]]に大変重んじられ、その名声は当時並ぶものなく、太子[[楊勇]]や諸王はあらそって交際を求め、[[高 |
[[592年]]、[[蘇威]]とともに人事を濫用していると讒言され[[嶺南 (中国)|嶺南]]に左遷された。当時[[揚州 (江蘇省)|揚州]]にいた晋王[[煬帝|楊広]](後の煬帝)は薛道衡を自分の幕僚に招こうと人づてに誘ったが、薛道衡は気が進まず、揚州を通らずに任地に赴いた。これにより楊広は秘かに薛道衡を恨んだ。まもなく召還の詔が出て、数年後に内史侍郎となり、上儀同三司を加えられた。薛道衡の文才は[[楊堅|文帝]]に大変重んじられ、その名声は当時並ぶものなく、太子[[楊勇]]や諸王はあらそって交際を求め、[[高熲]]・[[楊素]]ら重臣からも尊敬された。 |
||
[[604年]]、文帝が死去して煬帝が即位すると、薛道衡は番州[[刺史]]に左遷された。翌年、煬帝は薛道衡を秘書監として召還したが、薛道衡が奉った「高祖文帝頌」を読み、「薛道衡が先朝を賛美しているのは自分への当てこすりである」と不快に思った。そこで薛道衡を司隷大夫に任じ、秘かに罪に陥れようとした。 |
[[604年]]、文帝が死去して煬帝が即位すると、薛道衡は番州[[刺史]]に左遷された。翌年、煬帝は薛道衡を秘書監として召還したが、薛道衡が奉った「高祖文帝頌」を読み、「薛道衡が先朝を賛美しているのは自分への当てこすりである」と不快に思った。そこで薛道衡を司隷大夫に任じ、秘かに罪に陥れようとした。 |
2020年8月17日 (月) 14:17時点における版
薛 道衡(せつ どうこう、540年 - 609年)は、中国南北朝時代および隋の文学者。字は玄卿。本貫は河東郡汾陰県。薛収の父、薛稷の曾祖父。高祖父は薛謹。曾祖父は薛破胡。祖父は薛聡。父は薛孝通。北朝および隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられたが、煬帝にその文才をねたまれ処刑された。
生涯
6歳の時に父の薛孝通を失うが、学問にはげみ、13歳の時『春秋左氏伝』を読んで、鄭の宰相子産の功績を称える「国僑の賛」を作り、人々からその出来映えを賞賛された。はじめ北斉に仕え、武成帝・後主の時には北周や陳の使者の応対、詔勅の起草などをつかさどり、文林館待詔の時には、盧思道・李徳林らと親しく交際し、彼らと名声を等しくした。北斉が滅びると北周・隋に仕えた。584年、陳に使者として赴くと、後主ら江南の人々にその詩文を賞賛された。
592年、蘇威とともに人事を濫用していると讒言され嶺南に左遷された。当時揚州にいた晋王楊広(後の煬帝)は薛道衡を自分の幕僚に招こうと人づてに誘ったが、薛道衡は気が進まず、揚州を通らずに任地に赴いた。これにより楊広は秘かに薛道衡を恨んだ。まもなく召還の詔が出て、数年後に内史侍郎となり、上儀同三司を加えられた。薛道衡の文才は文帝に大変重んじられ、その名声は当時並ぶものなく、太子楊勇や諸王はあらそって交際を求め、高熲・楊素ら重臣からも尊敬された。
604年、文帝が死去して煬帝が即位すると、薛道衡は番州刺史に左遷された。翌年、煬帝は薛道衡を秘書監として召還したが、薛道衡が奉った「高祖文帝頌」を読み、「薛道衡が先朝を賛美しているのは自分への当てこすりである」と不快に思った。そこで薛道衡を司隷大夫に任じ、秘かに罪に陥れようとした。
609年、新たに制定された法律の議論に参加した薛道衡は、議論がなかなか決定しないのを見て、「(陛下が)高熲を死なせなかったら、法令はとうに執行されているだろうに」と漏らした。御史大夫の裴蘊は、かねてから煬帝が薛道衡を憎んでいることを知っており、これを煬帝に報告して「薛道衡は自分の才能と旧臣であることを鼻にかけ、陛下をないがしろにしております」と讒言した。煬帝は薛道衡が高熲の処刑を批判したことに怒り、彼に自殺を命じた。薛道衡は大した罪にはならないと思っていたため、自殺の命令に驚き、それを受け入れることができなかった。御史が再度上奏し、薛道衡は縊殺された。享年70。天下の人々はこれを冤罪としたという。
一説には、煬帝は薛道衡の文才をねたんでおり、薛道衡の死を聞くと、「これで『空梁に燕泥落つ』(薛道衡の詩「昔昔塩」の一句)のような句は作れまい」と言ったという(司馬光『資治通鑑』などより)。
陸法言の『切韻』序によると、薛道衡は開皇の始め、顔之推・盧思道らとともに陸法言の家に集まって音韻の討論を行い、これが後に『切韻』にまとめられたとある。
著名な作品
人日思歸(人日 帰るを思ふ) | ||
原文 | 書き下し文 | |
入春纔七日 | 春に入りて 纔(わずか)に七日 | |
離家已二年 | 家を離れて 已に二年 | |
人歸落雁後 | 人の帰るは雁の後に落ち | |
思發在花前 | 思ひの発するは花の前に在り |