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襄城王[[高イク|高淯]]の後を嗣いだ。[[徐州]][[刺史]]となったが、商人の財物を奪った罪で免官された。[[576年]]、[[後主 (北斉)|後主]]が[[北周]]の[[武帝 (北周)|武帝]]の軍に敗れて[[鄴]]に撤退すると、高亮も後主に従って鄴に入った。[[太尉]]・[[太傅]]の位に転じた。北周軍が鄴を攻撃すると、高亮は啓夏門で防戦にあたった。北斉の諸軍はみな戦わずして敗れ、北周軍は諸城門から入城したので、高亮の軍も敗走した。高亮は馬のまま太廟に入ると、慟哭して祖先に謝罪し、その後に北周軍に捕らえられた。[[関中]]に入ると、儀同の位を受け、辺境に流されて、龍州で死去した。 |
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襄城王[[高淯]]の後を嗣いだ。[[徐州]][[刺史]]となったが、商人の財物を奪った罪で免官された。[[576年]]、[[後主 (北斉)|後主]]が[[北周]]の[[武帝 (北周)|武帝]]の軍に敗れて[[鄴]]に撤退すると、高亮も後主に従って鄴に入った。[[太尉]]・[[太傅]]の位に転じた。北周軍が鄴を攻撃すると、高亮は啓夏門で防戦にあたった。北斉の諸軍はみな戦わずして敗れ、北周軍は諸城門から入城したので、高亮の軍も敗走した。高亮は馬のまま太廟に入ると、慟哭して祖先に謝罪し、その後に北周軍に捕らえられた。[[関中]]に入ると、儀同の位を受け、辺境に流されて、龍州で死去した。 |
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== 伝記資料 == |
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== 伝記資料 == |
2020年8月17日 (月) 14:16時点における版
高 亮(こう りょう、生没年不詳)は、中国の北斉の皇族。襄城王。孝昭帝高演の庶出長男。母は桑氏。字は彦道。
経歴
襄城王高淯の後を嗣いだ。徐州刺史となったが、商人の財物を奪った罪で免官された。576年、後主が北周の武帝の軍に敗れて鄴に撤退すると、高亮も後主に従って鄴に入った。太尉・太傅の位に転じた。北周軍が鄴を攻撃すると、高亮は啓夏門で防戦にあたった。北斉の諸軍はみな戦わずして敗れ、北周軍は諸城門から入城したので、高亮の軍も敗走した。高亮は馬のまま太廟に入ると、慟哭して祖先に謝罪し、その後に北周軍に捕らえられた。関中に入ると、儀同の位を受け、辺境に流されて、龍州で死去した。
伝記資料
- 『北斉書』巻十 列伝第二
- 『北史』巻五十一 列伝第三十九