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「小爾朱氏」の版間の差分

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| 配偶者3 = 盧景璋
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| 氏族 = <!--出身氏族-->
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| 家名 =
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== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[530年]]、夫の長広王元曄が皇帝として擁立され、爾朱氏も皇后となった。しかし元曄は[[宗室]]の傍系からの即位で、人望にも欠如していた。4か月後、元曄は[[爾朱世隆]]らによって廃された。[[532年]]12月26日、元曄は[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]により後難を除くべく殺害された。その後、爾朱氏は[[高歓]]の側妻となった。537年、男子の[[高カイ|高湝]]を産んだ。
[[530年]]、夫の長広王元曄が皇帝として擁立され、爾朱氏も皇后となった。しかし元曄は[[宗室]]の傍系からの即位で、人望にも欠如していた。4か月後、元曄は[[爾朱世隆]]らによって廃された。[[532年]]12月26日、元曄は[[孝武帝 (北魏)|孝武帝]]により後難を除くべく殺害された。その後、爾朱氏は[[高歓]]の側妻となった。537年、男子の[[高湝]]を産んだ。


爾朱氏はその後、高歓の異母弟の趙郡公[[高チン|高琛]]と姦通した。高琛は杖で打たれて死んだ。爾朱氏は[[霊州]]に追放され、のちに[[范陽郡|范陽]]の盧景璋と再婚した。
爾朱氏はその後、高歓の異母弟の趙郡公[[高チン|高琛]]と姦通した。高琛は杖で打たれて死んだ。爾朱氏は[[霊州]]に追放され、のちに[[范陽郡|范陽]]の盧景璋と再婚した。


== 子女 ==
== 子女 ==
*任城王 [[高カイ|高湝]]([[高歓]]との子)
*任城王 [[高湝]]([[高歓]]との子)


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月17日 (月) 14:14時点における版

爾朱皇后
北魏の皇后
在位 530年

別称 小爾朱氏
配偶者 元曄
  高歓
  盧景璋
子女 高湝
父親 爾朱兆
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小爾朱氏(しょうじしゅし、生没年不詳)は、北魏の東海王元曄の皇后。爾朱兆の娘。は不詳で、爾朱栄の娘の大爾朱氏(爾朱兆の従姉妹)に対して小爾朱氏と呼ばれる。

生涯

530年、夫の長広王元曄が皇帝として擁立され、爾朱氏も皇后となった。しかし元曄は宗室の傍系からの即位で、人望にも欠如していた。4か月後、元曄は爾朱世隆らによって廃された。532年12月26日、元曄は孝武帝により後難を除くべく殺害された。その後、爾朱氏は高歓の側妻となった。537年、男子の高湝を産んだ。

爾朱氏はその後、高歓の異母弟の趙郡公高琛と姦通した。高琛は杖で打たれて死んだ。爾朱氏は霊州に追放され、のちに范陽の盧景璋と再婚した。

子女

伝記資料

  • 北史』巻14 列伝第2 后妃下「小爾朱者,兆之女也。初為建明皇后。神武納之,生任城王。未幾,與趙郡公琛私通,徙於霊州。後適范陽盧景璋。」