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「劉逖」の版間の差分

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[[550年]]、北斉が建国されると、定陶県令を代行したが、事件に連座して免職され、10年ほど任用されなかった。[[559年]]、員外散騎常侍を兼ね、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[蕭荘]]のもとに使者として立ち、帰還すると三公郎中を兼ねた。[[560年]]、太子洗馬に任じられた。[[561年]]、[[孝昭帝]]が死去すると、[[武成帝]]に従って晋陽におもむき、散騎侍郎に任じられ、儀曹郎中を兼ねた。しばらくして、中書侍郎を兼ねた。[[和士開]]が権勢を振るうようになると、劉逖は和士開に追従し、正式に中書侍郎となり、朝政の機密に参与した。[[564年]]11月、[[陳 (南朝)|南朝陳]]への使者に立ち、帰国すると通直散騎常侍の位を受けた。まもなく給事黄門侍郎に転じ、修国史をつとめ、散騎常侍の位を加えられた。
[[550年]]、北斉が建国されると、定陶県令を代行したが、事件に連座して免職され、10年ほど任用されなかった。[[559年]]、員外散騎常侍を兼ね、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[蕭荘]]のもとに使者として立ち、帰還すると三公郎中を兼ねた。[[560年]]、太子洗馬に任じられた。[[561年]]、[[孝昭帝]]が死去すると、[[武成帝]]に従って晋陽におもむき、散騎侍郎に任じられ、儀曹郎中を兼ねた。しばらくして、中書侍郎を兼ねた。[[和士開]]が権勢を振るうようになると、劉逖は和士開に追従し、正式に中書侍郎となり、朝政の機密に参与した。[[564年]]11月、[[陳 (南朝)|南朝陳]]への使者に立ち、帰国すると通直散騎常侍の位を受けた。まもなく給事黄門侍郎に転じ、修国史をつとめ、散騎常侍の位を加えられた。


また仮の[[儀同三司]]の位を受け、[[北周]]に対する副使をつとめた。北斉と北周のあいだの通交が始まると、劉逖は北周側と議論を重ねたが、古今の故事や礼法に通じ、文章も優れていたため、尊敬を受けた。帰還すると、正式に儀同三司となった。[[568年]]、[[武成帝]]が死去すると、劉逖は[[熙州|江州]][[刺史]]として出向した。[[572年]]、[[祖テイ|祖珽]]が北斉の政権を握ると、劉逖は[[仁州]]刺史に左遷された。[[573年]]、祖珽が[[北徐州]]刺史として出されると、劉逖は召還されて文林館の待詔をつとめ、再び散騎常侍となって、[[門下省|門下]]の事を奏上した。10月、[[崔季舒]]・[[張彫虎]]・[[封孝琰]]・[[裴沢]]・[[郭遵]]らとともに殺害された。享年は49。文集として『劉逖集』40巻があった。
また仮の[[儀同三司]]の位を受け、[[北周]]に対する副使をつとめた。北斉と北周のあいだの通交が始まると、劉逖は北周側と議論を重ねたが、古今の故事や礼法に通じ、文章も優れていたため、尊敬を受けた。帰還すると、正式に儀同三司となった。[[568年]]、[[武成帝]]が死去すると、劉逖は[[熙州|江州]][[刺史]]として出向した。[[572年]]、[[祖珽]]が北斉の政権を握ると、劉逖は[[仁州]]刺史に左遷された。[[573年]]、祖珽が[[北徐州]]刺史として出されると、劉逖は召還されて文林館の待詔をつとめ、再び散騎常侍となって、[[門下省|門下]]の事を奏上した。10月、[[崔季舒]]・[[張彫虎]]・[[封孝琰]]・[[裴沢]]・[[郭遵]]らとともに殺害された。享年は49。文集として『劉逖集』40巻があった。


子の劉逸民は、開府行参軍となった。
子の劉逸民は、開府行参軍となった。

2020年8月17日 (月) 14:12時点における最新版

劉 逖(りゅう てき、525年 - 573年)は、東魏から北斉にかけての官僚文人は子長。本貫彭城郡彭城県叢亭里。

経歴

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劉戫(劉廞の弟)の子として生まれた。若いころは狩猟と行楽を好み、悪ふざけをよくした。郡に功曹として召され、州に主簿に任ぜられた。東魏の末年に霸府をおとずれ、高澄の命により永安公高浚の下で開府行参軍をつとめた。郷里を遠く離れて、旅の生活に飽き、一念発起して読書に励むようになった。晋陽に霸府の人士が集った遊宴の最中であっても、劉逖は書物を手から離さず、昼に夜に学問した。心にとまったことを文章とし、たくみに詩にして詠んだ。

550年、北斉が建国されると、定陶県令を代行したが、事件に連座して免職され、10年ほど任用されなかった。559年、員外散騎常侍を兼ね、南朝梁蕭荘のもとに使者として立ち、帰還すると三公郎中を兼ねた。560年、太子洗馬に任じられた。561年孝昭帝が死去すると、武成帝に従って晋陽におもむき、散騎侍郎に任じられ、儀曹郎中を兼ねた。しばらくして、中書侍郎を兼ねた。和士開が権勢を振るうようになると、劉逖は和士開に追従し、正式に中書侍郎となり、朝政の機密に参与した。564年11月、南朝陳への使者に立ち、帰国すると通直散騎常侍の位を受けた。まもなく給事黄門侍郎に転じ、修国史をつとめ、散騎常侍の位を加えられた。

また仮の儀同三司の位を受け、北周に対する副使をつとめた。北斉と北周のあいだの通交が始まると、劉逖は北周側と議論を重ねたが、古今の故事や礼法に通じ、文章も優れていたため、尊敬を受けた。帰還すると、正式に儀同三司となった。568年武成帝が死去すると、劉逖は江州刺史として出向した。572年祖珽が北斉の政権を握ると、劉逖は仁州刺史に左遷された。573年、祖珽が北徐州刺史として出されると、劉逖は召還されて文林館の待詔をつとめ、再び散騎常侍となって、門下の事を奏上した。10月、崔季舒張彫虎封孝琰裴沢郭遵らとともに殺害された。享年は49。文集として『劉逖集』40巻があった。

子の劉逸民は、開府行参軍となった。

伝記資料

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