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清の廩貢生。日本に留学し、[[法政大学]][[法政速成科]]を卒業した。帰国後はドイツの山東鉱山区占領に反対するため、保鉱会という組織を結成している。後に山東法政学堂教習(教官)となった。[[1910年]]([[宣統]]2年)、山東咨議局議員に当選したが、翌年辞職する。[[武昌起義]]が勃発すると、革命派に与して山東省の独立を図った。
清の廩貢生。日本に留学し、[[法政大学]][[法政速成科]]を卒業した。帰国後はドイツの山東鉱山区占領に反対するため、保鉱会という組織を結成している。後に山東法政学堂教習(教官)となった。[[1910年]]([[宣統]]2年)、山東咨議局議員に当選したが、翌年辞職する。[[武昌起義]]が勃発すると、革命派に与して山東省の独立を図った。


[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、北京で[[臨時参議院]]議員に当選し、さらに『亜細亜日報』主筆もつとめた。翌[[1913年]](民国2年)5月、[[進歩党 (中華民国)|進歩党]]に加入し、党務部部長に任ぜられている。同年10月、[[国民党 (宋教仁)|国民党]]の[[張耀曽]]らと[[民憲党]]を組織したが、まもなく[[袁世凱]]の命令により国会は解散されてしまう。政党活動の一方で、[[張東ソン|張東蓀]]らと共に『中国雑誌』を編集・出版した。[[1915年]](民国4年)、袁が皇帝即位をもくろむと、丁は[[上海市|上海]]に移り反袁活動を展開した。
[[1912年]]([[民国紀元|民国]]元年)、北京で[[臨時参議院]]議員に当選し、さらに『亜細亜日報』主筆もつとめた。翌[[1913年]](民国2年)5月、[[進歩党 (中華民国)|進歩党]]に加入し、党務部部長に任ぜられている。同年10月、[[国民党 (宋教仁)|国民党]]の[[張耀曽]]らと[[民憲党]]を組織したが、まもなく[[袁世凱]]の命令により国会は解散されてしまう。政党活動の一方で、[[張東]]らと共に『中国雑誌』を編集・出版した。[[1915年]](民国4年)、袁が皇帝即位をもくろむと、丁は[[上海市|上海]]に移り反袁活動を展開した。


袁世凱死後の[[1916年]](民国5年)8月、大総統となった[[黎元洪]]により丁仏言は総統府秘書長に任命された。しかし、翌年2月にいったん辞職・帰郷し、古文書学に親しむ。[[1922年]](民国11年)、[[曹錕]]が賄選により大総統当選を目論むと、当時国会議員となっていた丁はこれを拒否し、さらに批判的な言論活動を展開した。このために丁は逮捕され、[[1924年]](民国13年)に北京政変(首都革命)で曹が失脚するまで拘禁された<ref>蒋恵民による。一方、徐友春主編同上によれば、丁は1924年に曹&#37653;により逮捕・拘禁され、翌年釈放されたとする。</ref>。
袁世凱死後の[[1916年]](民国5年)8月、大総統となった[[黎元洪]]により丁仏言は総統府秘書長に任命された。しかし、翌年2月にいったん辞職・帰郷し、古文書学に親しむ。[[1922年]](民国11年)、[[曹錕]]が賄選により大総統当選を目論むと、当時国会議員となっていた丁はこれを拒否し、さらに批判的な言論活動を展開した。このために丁は逮捕され、[[1924年]](民国13年)に北京政変(首都革命)で曹が失脚するまで拘禁された<ref>蒋恵民による。一方、徐友春主編同上によれば、丁は1924年に曹&#37653;により逮捕・拘禁され、翌年釈放されたとする。</ref>。

2020年8月17日 (月) 10:05時点における版

丁仏言
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)[1]
死去: 1930年民国19年)12月1日
中華民国の旗 中華民国北平市
出身地: 清の旗 山東省登州府黄県
職業: 政治家・書家・詩人・ジャーナリスト
各種表記
繁体字 丁佛言
簡体字 丁佛言
拼音 Dīng Fóyán
ラテン字 Ting Fo-yen
和名表記: てい ふつげん
発音転記: ディン フォーユエン
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丁 仏言(てい ふつげん)は中華民国の政治家・書家・詩人・ジャーナリスト。仏言で、名は世嶧。号は邁純

事跡

清の廩貢生。日本に留学し、法政大学法政速成科を卒業した。帰国後はドイツの山東鉱山区占領に反対するため、保鉱会という組織を結成している。後に山東法政学堂教習(教官)となった。1910年宣統2年)、山東咨議局議員に当選したが、翌年辞職する。武昌起義が勃発すると、革命派に与して山東省の独立を図った。

1912年民国元年)、北京で臨時参議院議員に当選し、さらに『亜細亜日報』主筆もつとめた。翌1913年(民国2年)5月、進歩党に加入し、党務部部長に任ぜられている。同年10月、国民党張耀曽らと民憲党を組織したが、まもなく袁世凱の命令により国会は解散されてしまう。政党活動の一方で、張東蓀らと共に『中国雑誌』を編集・出版した。1915年(民国4年)、袁が皇帝即位をもくろむと、丁は上海に移り反袁活動を展開した。

袁世凱死後の1916年(民国5年)8月、大総統となった黎元洪により丁仏言は総統府秘書長に任命された。しかし、翌年2月にいったん辞職・帰郷し、古文書学に親しむ。1922年(民国11年)、曹錕が賄選により大総統当選を目論むと、当時国会議員となっていた丁はこれを拒否し、さらに批判的な言論活動を展開した。このために丁は逮捕され、1924年(民国13年)に北京政変(首都革命)で曹が失脚するまで拘禁された[2]

その後、丁仏言は済南の中学で国文学教師となった。1928年(民国17年)以降は北平に寓居している。丁は書家・詩人としても優れた声望を有し、多くの作品を残した。

1930年(民国19年)12月1日、北平にて病没。享年53。

脚注

  1. ^ 蒋恵民による。徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』8頁は1888年光緒14年)とする。
  2. ^ 蒋恵民による。一方、徐友春主編同上によれば、丁は1924年に曹錕により逮捕・拘禁され、翌年釈放されたとする。

参考文献

  • 蒋恵民「豪気邁千秋 文章垂万世-記近現代著名書法、古文字学家和社会活動家 丁佛言」人文自然網(山東省人文自然遺産保護与開発促进会ホームページ)
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
張国淦
総統府秘書長
1916年8月 - 1917年2月
次代
夏寿康