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「李豊 (後漢)」の版間の差分

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== 正史の事跡 ==
== 正史の事跡 ==
[[袁術]]配下。[[建安 (漢)|建安]]2年(197年)9月、[[曹操]]が自ら陳国に進攻した袁術を討伐すると、袁術は[[橋ズイ|橋蕤]]に加え、李豊・[[梁綱]]・[[楽就]]の3将を陳国に残留させ(『[[後漢書]]』袁術伝によると、[[張勲 (後漢)|張勲]]も留まったとされる)、自分だけ[[淮南]]へ逃げ帰った。李豊は、他の将軍たちと共に曹操軍を迎撃したが、敗北して戦死した。
[[袁術]]配下。[[建安 (漢)|建安]]2年(197年)9月、[[曹操]]が自ら陳国に進攻した袁術を討伐すると、袁術は[[橋蕤]]に加え、李豊・[[梁綱]]・[[楽就]]の3将を陳国に残留させ(『[[後漢書]]』袁術伝によると、[[張勲 (後漢)|張勲]]も留まったとされる)、自分だけ[[淮南]]へ逃げ帰った。李豊は、他の将軍たちと共に曹操軍を迎撃したが、敗北して戦死した。


== 物語中の李豊 ==
== 物語中の李豊 ==

2020年8月17日 (月) 10:04時点における版

李豊
後漢
死去 建安2年(197年
拼音 Lǐ Fēng
主君 袁術
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李 豊(り ほう、? - 197年)は、中国後漢時代末期の武将。

正史の事跡

袁術配下。建安2年(197年)9月、曹操が自ら陳国に進攻した袁術を討伐すると、袁術は橋蕤に加え、李豊・梁綱楽就の3将を陳国に残留させ(『後漢書』袁術伝によると、張勲も留まったとされる)、自分だけ淮南へ逃げ帰った。李豊は、他の将軍たちと共に曹操軍を迎撃したが、敗北して戦死した。

物語中の李豊

小説『三国志演義』では、梁剛(正史の梁綱)・楽就と共に呂布討伐時の各軍の督戦官を務める。呂布が袁術に襲い掛かろうとすると、李豊は槍をとって立ち向かったが、呂布の画戟を腕に受け敗走する。曹操らが寿春に攻め込んでくると、淮水を渡って逃れようとする袁術の命により、李豊は梁剛・楽就・陳紀と共に寿春城を固守している。しかし、曹操軍の猛攻により城は陥落し、李豊らは城内の市場へ引き出されて斬首される結末となっている。

参考文献