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[[斉 (春秋)|斉]]に生まれ、衛の定公にとついだ。定公とのあいだに公子を生んだが、早くにその公子は死去した。公子の妻には子がなく、3年の喪を終えると、定姜は公子の妻を帰国させるべく自らこれを送った。野にいたって、悲しみがきわまり、涙をふるって「燕燕」<ref>『[[詩経]]』邶風</ref>の詩を詠んだ<ref name="retsujoden">『[[列女伝]]』母儀伝「衛姑定姜」</ref>とされる。 |
[[斉 (春秋)|斉]]に生まれ、衛の定公にとついだ。定公とのあいだに公子を生んだが、早くにその公子は死去した。公子の妻には子がなく、3年の喪を終えると、定姜は公子の妻を帰国させるべく自らこれを送った。野にいたって、悲しみがきわまり、涙をふるって「燕燕」<ref>『[[詩経]]』邶風</ref>の詩を詠んだ<ref name="retsujoden">『[[列女伝]]』母儀伝「衛姑定姜」</ref>とされる。 |
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ときに定公は[[孫林父]]を憎んでおり、[[紀元前584年]]に孫林父は[[晋 (春秋)|晋]]に亡命した<ref>『[[春秋左氏伝]]』成公7年</ref>。[[紀元前577年]]、晋の[[厲公 (晋)|厲公]]が[[郤犨]]を衛に派遣して孫林父を帰国させようとした。定公はこれを断ろうとしたが、定姜が「いけません。孫林父は先君[[穆公 (衛)|穆公]]の時代の上卿であった[[孫良夫]]の嗣子です。また大国の要請を断れば、衛国は滅亡しましょう。孫林父が憎いといっても、亡国よりはましです。君は我慢なさってください。民を安んじて上卿を許すのも、また悪いことではありません」と諫めたので、定公は孫林父の帰国と復権を許した。 |
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同年冬、定公が死去した。定公と敬姒のあいだの子の[[献公 (衛)|衎]](献公)が衛の国君として即位したが、献公は喪中にあっても悲しむ態度を見せなかった。定姜は「天は衛国に禍いを下された。わたしは鱄(子鮮)を国君に立てたかった」と嘆いた。衛国の大夫たちはこれを聞いてみな不安を抱き、孫林父は自家の財産を衛から戚に移して、晋の大夫たちとの交友を親密にするようになった<ref>『春秋左氏伝』成公14年</ref>。後に献公は暴虐ぶりを示し、定姜をあなどるようになった<ref name="retsujoden"/>。 |
同年冬、定公が死去した。定公と敬姒のあいだの子の[[献公 (衛)|衎]](献公)が衛の国君として即位したが、献公は喪中にあっても悲しむ態度を見せなかった。定姜は「天は衛国に禍いを下された。わたしは鱄(子鮮)を国君に立てたかった」と嘆いた。衛国の大夫たちはこれを聞いてみな不安を抱き、孫林父は自家の財産を衛から戚に移して、晋の大夫たちとの交友を親密にするようになった<ref>『春秋左氏伝』成公14年</ref>。後に献公は暴虐ぶりを示し、定姜をあなどるようになった<ref name="retsujoden"/>。 |
2020年8月17日 (月) 09:48時点における版
定姜 | |
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衛の公爵夫人 | |
配偶者 | 定公 |
子女 | 公子某 |
氏族 | 姜姓呂氏 |
出身諸侯国 | 斉 |
経歴
斉に生まれ、衛の定公にとついだ。定公とのあいだに公子を生んだが、早くにその公子は死去した。公子の妻には子がなく、3年の喪を終えると、定姜は公子の妻を帰国させるべく自らこれを送った。野にいたって、悲しみがきわまり、涙をふるって「燕燕」[1]の詩を詠んだ[2]とされる。
ときに定公は孫林父を憎んでおり、紀元前584年に孫林父は晋に亡命した[3]。紀元前577年、晋の厲公が郤犨を衛に派遣して孫林父を帰国させようとした。定公はこれを断ろうとしたが、定姜が「いけません。孫林父は先君穆公の時代の上卿であった孫良夫の嗣子です。また大国の要請を断れば、衛国は滅亡しましょう。孫林父が憎いといっても、亡国よりはましです。君は我慢なさってください。民を安んじて上卿を許すのも、また悪いことではありません」と諫めたので、定公は孫林父の帰国と復権を許した。
同年冬、定公が死去した。定公と敬姒のあいだの子の衎(献公)が衛の国君として即位したが、献公は喪中にあっても悲しむ態度を見せなかった。定姜は「天は衛国に禍いを下された。わたしは鱄(子鮮)を国君に立てたかった」と嘆いた。衛国の大夫たちはこれを聞いてみな不安を抱き、孫林父は自家の財産を衛から戚に移して、晋の大夫たちとの交友を親密にするようになった[4]。後に献公は暴虐ぶりを示し、定姜をあなどるようになった[2]。
紀元前563年、鄭の皇耳が軍を率いて衛に侵攻した。孫林父が鄭軍を追撃すべきか占い、結果を定姜に見せると、「卜兆は山陵のようなかたちである。男たちが出征すればその主将を失うだろう」といった。定姜は「出征する者が主将を失うとは、防御側の利を表しています。あなたは鄭軍を追撃なさい」と答えた。衛軍が鄭軍を追撃すると、皇耳を犬丘で捕らえた[5]。
紀元前559年、孫林父が献公を攻撃し、献公は斉に亡命した。献公は国境を出るにあたって、祝宗を宗廟に派遣して、亡命の事実と自分の無罪を報告した。定姜は献公の3つの罪を数えて、その欺瞞を糾弾した[6]。