コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「徐陵 (孫呉)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「羊舌キツ」→「羊舌肸」の改名に伴うリンク修正依頼 - log
5行目: 5行目:
徐陵は無名の人物であったが、[[虞翻]]は、徐陵や[[丁覧]]がまだ県の下っ端の役人の身分であったり世間の人から認められておらぬ境遇の時に、一度会っただけですぐさま友人としての交わりを結び、やがて徐陵や丁覧の名が人々の間に知られるよう守り立てたという<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志 虞翻伝</ref>。
徐陵は無名の人物であったが、[[虞翻]]は、徐陵や[[丁覧]]がまだ県の下っ端の役人の身分であったり世間の人から認められておらぬ境遇の時に、一度会っただけですぐさま友人としての交わりを結び、やがて徐陵や丁覧の名が人々の間に知られるよう守り立てたという<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志 虞翻伝</ref>。


のちに3つの県の県令を歴任したが、そのいずれの県でも評判が良かった。のちに[[荊州]]の[[零陵郡|零陵]]太守に昇進した。その当時、朝廷では、やがて列卿の位に升るべき人材として遇していた。そうしたことから、虞翻も手紙の中で「元大(徐陵)どのは上卿としての待遇を受けておられるが、[[羊舌キツ|叔向]]が[[晋 (春秋)|晋]]で受けた手厚い待遇も、これに勝るものではない」と評価した。このように、徐陵は呉の中で人々から重んぜられたという<ref>『会稽典録』</ref>。
のちに3つの県の県令を歴任したが、そのいずれの県でも評判が良かった。のちに[[荊州]]の[[零陵郡|零陵]]太守に昇進した。その当時、朝廷では、やがて列卿の位に升るべき人材として遇していた。そうしたことから、虞翻も手紙の中で「元大(徐陵)どのは上卿としての待遇を受けておられるが、[[羊舌|叔向]]が[[晋 (春秋)|晋]]で受けた手厚い待遇も、これに勝るものではない」と評価した。このように、徐陵は呉の中で人々から重んぜられたという<ref>『会稽典録』</ref>。


徐陵が亡くなった後、徐陵の小作人や田畑が他人に奪われるということがあった。その時、[[駱統]]は徐陵の遺族のために訴訟を起こし、既に亡くなっていた丁覧や[[卜静]]の遺族に与えられたと同様の優遇を与えてほしいと[[孫権]]に願い出ると、孫権はそれを許可した<ref>『会稽典録』</ref>。このことから、徐陵は[[黄武]]7年([[228年]])以前に亡くなっていることがわかる<ref>駱統の没年が228年</ref>。
徐陵が亡くなった後、徐陵の小作人や田畑が他人に奪われるということがあった。その時、[[駱統]]は徐陵の遺族のために訴訟を起こし、既に亡くなっていた丁覧や[[卜静]]の遺族に与えられたと同様の優遇を与えてほしいと[[孫権]]に願い出ると、孫権はそれを許可した<ref>『会稽典録』</ref>。このことから、徐陵は[[黄武]]7年([[228年]])以前に亡くなっていることがわかる<ref>駱統の没年が228年</ref>。

2020年8月17日 (月) 09:39時点における版

徐 陵(じょ りょう、? - ?)は、中国後漢末期から三国時代政治家元大[1]揚州会稽郡太末県の人。子は徐平

生涯

徐陵は無名の人物であったが、虞翻は、徐陵や丁覧がまだ県の下っ端の役人の身分であったり世間の人から認められておらぬ境遇の時に、一度会っただけですぐさま友人としての交わりを結び、やがて徐陵や丁覧の名が人々の間に知られるよう守り立てたという[2]

のちに3つの県の県令を歴任したが、そのいずれの県でも評判が良かった。のちに荊州零陵太守に昇進した。その当時、朝廷では、やがて列卿の位に升るべき人材として遇していた。そうしたことから、虞翻も手紙の中で「元大(徐陵)どのは上卿としての待遇を受けておられるが、叔向で受けた手厚い待遇も、これに勝るものではない」と評価した。このように、徐陵は呉の中で人々から重んぜられたという[3]

徐陵が亡くなった後、徐陵の小作人や田畑が他人に奪われるということがあった。その時、駱統は徐陵の遺族のために訴訟を起こし、既に亡くなっていた丁覧や卜静の遺族に与えられたと同様の優遇を与えてほしいと孫権に願い出ると、孫権はそれを許可した[4]。このことから、徐陵は黄武7年(228年)以前に亡くなっていることがわかる[5]

参考文献

脚注

  1. ^ 会稽典録
  2. ^ 三国志』呉志 虞翻伝
  3. ^ 『会稽典録』
  4. ^ 『会稽典録』
  5. ^ 駱統の没年が228年