「殤公 (衛)」の版間の差分
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殤公6年([[紀元前553年|前553年]])6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、甯殖が[[卒去]]し、その後を子の[[甯喜]](甯悼子)が継いだ。 |
殤公6年([[紀元前553年|前553年]])6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、甯殖が[[卒去]]し、その後を子の[[甯喜]](甯悼子)が継いだ。 |
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殤公7年([[紀元前552年|前552年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した<ref>この会合では[[欒盈]]をかくまわないことを相談し合った。</ref>。このとき、斉の[[荘公光|荘公]]と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である[[羊舌 |
殤公7年([[紀元前552年|前552年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した<ref>この会合では[[欒盈]]をかくまわないことを相談し合った。</ref>。このとき、斉の[[荘公光|荘公]]と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である[[羊舌肸|羊舌肸(叔向)]]に注意された。 |
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殤公8年([[紀元前551年|前551年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾の君主たちと沙随(宋の地)で会合した<ref>この会合では欒盈を閉じ込めることを話し合った。</ref>。 |
殤公8年([[紀元前551年|前551年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾の君主たちと沙随(宋の地)で会合した<ref>この会合では欒盈を閉じ込めることを話し合った。</ref>。 |
2020年8月17日 (月) 09:39時点における版
殤公 姫秋 | |
---|---|
衛 | |
第26代公 | |
王朝 | 衛 |
在位期間 | 紀元前558年 - 紀元前547年 |
都城 | 帝丘 |
姓・諱 | 姫秋(剽) |
諡号 | 殤公 |
生年 | 不詳 |
没年 | 紀元前547年 |
父 | 姫黒背 |
殤公(しょうこう、紀元前?年 - 紀元前547年)は、衛の第26代君主。穆公の孫で姫黒背の子。『史記』での諱は秋(しゅう)だが、『春秋左氏伝』では剽(ひょう)と表記している。
生涯
穆公の孫として生まれる。
献公5年(前572年)冬、献公は公孫秋(子叔)を魯へ遣わした。
献公18年(前559年)4月、大夫の孫林父(孫文子)が献公を攻撃して衛から放逐した。孫林父は献公の従弟である公孫秋を立てて衛君(以降は殤公と表記)とした。放逐された献公は斉へ逃れ、聚邑に住まわせてもらった。こうして孫林父と甯殖(甯恵子)は衛の相(しょう:宰相)となり、諸侯の命を聞くこととなった。
殤公2年(前557年)3月、殤公は晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾の要人たちと溴梁で会合し、盟を結んだ。6月、甯殖は鄭・晋・魯・宋の要人たちと会合し、許を攻撃した。
殤公3年(前556年)春、大夫の孫蒯(孫林父の子)は国境を越えて曹隧(曹の地)で狩りをし、重丘(曹の邑)で馬に水を飲まそうとして釣瓶を壊してしまった。それに対して重丘の人が彼の父を罵ったので、その夏に衛の石買と孫蒯は曹を攻撃し、重丘を占領した。
殤公4年(前555年)夏、昨年の件で曹が同盟国である晋に訴えたため、晋は石買と孫蒯を捕えた。10月、殤公は晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと魯済(魯の地)で会合し、ともに斉を包囲した。
殤公5年(前554年)夏、孫林父が衛軍を率いて斉を攻撃した。
殤公6年(前553年)6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、甯殖が卒去し、その後を子の甯喜(甯悼子)が継いだ。
殤公7年(前552年)冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した[1]。このとき、斉の荘公と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である羊舌肸(叔向)に注意された。
殤公8年(前551年)冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾の君主たちと沙随(宋の地)で会合した[2]。
殤公9年(前550年)秋、斉が衛を攻撃してきた。
殤公10年(前549年)秋、殤公は晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、ともに斉を討とうとしたが、洪水に遭って勝てなかった(朝歌の戦い)。
殤公11年(前548年)5月、殤公はふたたび晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、斉を攻撃した。その秋、斉との和約が成立し、諸侯は重丘で盟を結んだ。そのころ、衛の先君である献公が夷儀に入った。
殤公12年(前547年)、先君の献公が何度か甯喜に帰国を求めたため、2月に甯喜と右宰の穀は政敵である孫一族を攻撃し、殤公と太子の角を殺して献公を迎えた[3]。
脚注
- ^ この会合では欒盈をかくまわないことを相談し合った。
- ^ この会合では欒盈を閉じ込めることを話し合った。
- ^ 『史記』では「孫林父が甯喜に敗れて晋に出奔すると、晋の平公に献公の復位を求めた。これを聞いた斉の景公も献公と共に晋へ赴き、献公の復位を求めた。そこで晋の平公は衛を攻撃して殤公と甯喜を捕え、献公をふたたび衛君の座に就かせた。」とあり、殤公が殺されたとは書いていない。