「紀元前533年」の版間の差分
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* [[周]]の甘邑大夫の襄が[[晋 (春秋)|晋]]の閻嘉と閻の田土を争い、晋の梁丙・張趯が陰戎を率いて潁を攻撃した。周の[[景王 (周)|景王]]は詹桓伯を晋に派遣して、戎を動員したことを非難した。晋の[[韓起]](韓宣子)は[[羊舌肸]](叔向)の意見を容れて、閻の田土を周に贈り、潁で得た捕虜を送還した。景王は賓滑に甘邑大夫の襄を逮捕させ、その事情を晋に説明させると、晋は賓滑を礼遇して帰国させた。 |
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* 陳で火災があった。 |
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* 晋の荀盈が妻を迎えに[[斉 (春秋)|斉]]に行き、帰国する途中に死去した。その葬儀がおこなわれないうちに、晋の[[平公 (晋)|平公]]が酒宴を催し、音楽を鳴らしたので、膳宰の屠蒯がこれを諫めた。 |
* 晋の荀盈が妻を迎えに[[斉 (春秋)|斉]]に行き、帰国する途中に死去した。その葬儀がおこなわれないうちに、晋の[[平公 (晋)|平公]]が酒宴を催し、音楽を鳴らしたので、膳宰の屠蒯がこれを諫めた。 |
2020年8月17日 (月) 09:38時点における版
世紀 | 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀 |
---|---|
十年紀 |
前550年代 前540年代 前530年代 前520年代 前510年代 |
年 |
前536年 前535年 前534年 紀元前533年 前532年 前531年 前530年 |
紀元前533年は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元221年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前533年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
中国
- 楚の霊王が魯の叔弓・宋の華亥・鄭の游吉・衛の趙黶らと陳で会合した。
- 楚の公子弃疾が許を葉から城父に移転させた。
- 周の甘邑大夫の襄が晋の閻嘉と閻の田土を争い、晋の梁丙・張趯が陰戎を率いて潁を攻撃した。周の景王は詹桓伯を晋に派遣して、戎を動員したことを非難した。晋の韓起(韓宣子)は羊舌肸(叔向)の意見を容れて、閻の田土を周に贈り、潁で得た捕虜を送還した。景王は賓滑に甘邑大夫の襄を逮捕させ、その事情を晋に説明させると、晋は賓滑を礼遇して帰国させた。
- 陳で火災があった。
- 晋の荀盈が妻を迎えに斉に行き、帰国する途中に死去した。その葬儀がおこなわれないうちに、晋の平公が酒宴を催し、音楽を鳴らしたので、膳宰の屠蒯がこれを諫めた。
- 魯の仲孫玃(孟僖子)が斉に赴いた。