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「耆齢」の版間の差分

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[[満州民族|満州]]正黄[[旗人]]。[[工部 (六部)|工部]]の筆帖式(満州語と中国語の翻訳官)出身。[[1837年]]に[[挙人]]となり、刑部主事、郎中を歴任した。その後、[[江西省]]各地の[[知府]]を歴任した。[[1853年]]、[[太平天国]]軍が[[南昌市|南昌]]を攻撃した際には防衛にかけつけた。[[1855年]]に吉南贛寧道に昇進し、太平天国軍が[[修水県|義寧]]を攻撃すると救援にあたった。[[1856年]]、江西[[布政使]]に昇進し、[[鄱陽県|饒州]]に駐屯した。働きぶりを[[曽国藩]]に評価され、[[1857年]]に江西巡撫となった。
[[満州民族|満州]]正黄[[旗人]]。[[工部 (六部)|工部]]の筆帖式(満州語と中国語の翻訳官)出身。[[1837年]]に[[挙人]]となり、刑部主事、郎中を歴任した。その後、[[江西省]]各地の[[知府]]を歴任した。[[1853年]]、[[太平天国]]軍が[[南昌市|南昌]]を攻撃した際には防衛にかけつけた。[[1855年]]に吉南贛寧道に昇進し、太平天国軍が[[修水県|義寧]]を攻撃すると救援にあたった。[[1856年]]、江西[[布政使]]に昇進し、[[鄱陽県|饒州]]に駐屯した。働きぶりを[[曽国藩]]に評価され、[[1857年]]に江西巡撫となった。


当時の江西省の大半は太平天国軍の手に落ち、清朝には南昌・[[カン州市|贛州]]など数郡しか残されていなかった。耆齢は[[湘軍]]と協力して太平天国軍にあたり、[[1859年]]までに江西省全域を奪回した。
当時の江西省の大半は太平天国軍の手に落ち、清朝には南昌・[[州市|贛州]]など数郡しか残されていなかった。耆齢は[[湘軍]]と協力して太平天国軍にあたり、[[1859年]]までに江西省全域を奪回した。


その後、広東巡撫に異動し、侵入してきた太平天国軍の撃退にあたった。[[1862年]]、[[閩浙総督]]となり、[[福建省]]から[[浙江省]]に入り、浙江省東部を平定した。[[1863年]]、福州将軍に転任したが間もなく死去した。恪慎の[[諡号]]が贈られた。
その後、広東巡撫に異動し、侵入してきた太平天国軍の撃退にあたった。[[1862年]]、[[閩浙総督]]となり、[[福建省]]から[[浙江省]]に入り、浙江省東部を平定した。[[1863年]]、福州将軍に転任したが間もなく死去した。恪慎の[[諡号]]が贈られた。

2020年8月17日 (月) 07:45時点における版

耆齢(きれい、チリン、満州語:Ciling、Qiling、? ‐ 1863年)、字は九峰朝の官僚。

満州正黄旗人工部の筆帖式(満州語と中国語の翻訳官)出身。1837年挙人となり、刑部主事、郎中を歴任した。その後、江西省各地の知府を歴任した。1853年太平天国軍が南昌を攻撃した際には防衛にかけつけた。1855年に吉南贛寧道に昇進し、太平天国軍が義寧を攻撃すると救援にあたった。1856年、江西布政使に昇進し、饒州に駐屯した。働きぶりを曽国藩に評価され、1857年に江西巡撫となった。

当時の江西省の大半は太平天国軍の手に落ち、清朝には南昌・贛州など数郡しか残されていなかった。耆齢は湘軍と協力して太平天国軍にあたり、1859年までに江西省全域を奪回した。

その後、広東巡撫に異動し、侵入してきた太平天国軍の撃退にあたった。1862年閩浙総督となり、福建省から浙江省に入り、浙江省東部を平定した。1863年、福州将軍に転任したが間もなく死去した。恪慎の諡号が贈られた。

出典

先代
文俊(ウェンジュン)
江西巡撫
1857-1859
次代
惲光宸
先代
労崇光
広東巡撫
1859-1862
次代
労崇光
先代
慶端(キンドゥワン)
閩浙総督
1862-1863
次代
左宗棠