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[[礼記]]王制に「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟廱、諸侯曰頖宮」とあるように、辟雍は天子が命じてつくらせた学校である。[[詩経]]の魯頌泮宮の毛伝鄭箋に「築土雝(雍)水之外,圓如璧,四方来觀者均也」というように、四方に水を雍(たくわ)え、全体の形が辟(かべ)のようであることから辟雍と名付けられたと考えられる<ref>{{Cite book|和書|author=池内宏、他監修|year=1992|title=縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻|publisher=臨川書店|pages=P.497}}</ref>。 |
[[礼記]]王制に「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟廱、諸侯曰頖宮」とあるように、辟雍は天子が命じてつくらせた学校である。[[詩経]]の魯頌泮宮の毛伝鄭箋に「築土雝(雍)水之外,圓如璧,四方来觀者均也」というように、四方に水を雍(たくわ)え、全体の形が辟(かべ)のようであることから辟雍と名付けられたと考えられる<ref>{{Cite book|和書|author=池内宏、他監修|year=1992|title=縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻|publisher=臨川書店|pages=P.497}}</ref>。 |
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辟雍の所在地については古来議論がある。[[後漢]]の[[鄭玄]]は『駁五経異義』で、それは都の西の郊外にあり明堂・宗廟とは全く別物であると主張し、[[魏晋南北朝時代|魏晋時代]]の[[袁準]]はこの意見を支持している。これに対し後漢の[[ |
辟雍の所在地については古来議論がある。[[後漢]]の[[鄭玄]]は『駁五経異義』で、それは都の西の郊外にあり明堂・宗廟とは全く別物であると主張し、[[魏晋南北朝時代|魏晋時代]]の[[袁準]]はこの意見を支持している。これに対し後漢の[[蔡邕]]は『明堂月令論』に『大戴礼記』正徳篇にある「取其正室之貌,則曰太廟。取其堂,則曰明堂。取其四門之學,則曰太學。取其水周圓璧,則曰辟廱。」という記載を引いて、名は異なるが明堂・宗廟を指していると主張し、この意見は[[盧植]]や穎子容が支持していた。[[孫詒譲]]は宋の鄭鍔のいう「辟雍とは水を周りにめぐらした土地の中央にあった学校を呼び、周の制度では辟雍の南に置いていたものを成均と呼び、有虞氏や虞氏の制度では北に置いたものを上庠とし、[[夏 (三代)|夏]]の制度では東に置いたものを東序とし、殷の制度では西に置いたものを瞽宗とした」という説を引き、それらの学校を五学([[太学]])といい、辟雍はもっとも尊ばれていると考えた<ref>{{Cite book|和書|author=池内宏、他監修|year=1992|title=縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻|publisher=臨川書店|pages=P.497}}</ref>。また蔡邕はその著の『独断』に「天子曰辟雍、謂流水四面如璧、以節観者、諸侯曰頖宮、頖言半也、義亦如上」と述べ、辟雍とは天子の学校で池を丸く掘って中央に堂を造ったもので、これは射る時に見物人が押し寄せないようにするためだ、頖宮とは諸侯のための学校で池を半月の形に掘り、その内側に堂を建てたもので辟雍を半分にしたものだ、と説明している。この説はにわかに信じられない、と伊藤東涯は判断した<ref>{{Cite book|和書|author=伊藤東涯|year=1991|title=制度通・下|publisher=岩波文庫|pages=P.202}}</ref>。 |
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辟雍は周の王制では饗礼・射礼・養老礼などの儀式をおこなう場所であり、教化のための施設であった。漢では[[武帝 (漢)|武帝]]が太学と辟雍を設けたとされ<ref>{{Cite book|和書|author=池内宏、他監修|year=1992|title=縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻|publisher=臨川書店|pages=P.497}}</ref>、それ以後は歴代の王朝が踏襲した。 |
辟雍は周の王制では饗礼・射礼・養老礼などの儀式をおこなう場所であり、教化のための施設であった。漢では[[武帝 (漢)|武帝]]が太学と辟雍を設けたとされ<ref>{{Cite book|和書|author=池内宏、他監修|year=1992|title=縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻|publisher=臨川書店|pages=P.497}}</ref>、それ以後は歴代の王朝が踏襲した。 |
2020年8月17日 (月) 07:39時点における版
辟雍(へきよう、bi-yung[1])は、西周時代から設けられた中国の高等教育機関。璧雍・辟廱とも書く。
概要
礼記王制に「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟廱、諸侯曰頖宮」とあるように、辟雍は天子が命じてつくらせた学校である。詩経の魯頌泮宮の毛伝鄭箋に「築土雝(雍)水之外,圓如璧,四方来觀者均也」というように、四方に水を雍(たくわ)え、全体の形が辟(かべ)のようであることから辟雍と名付けられたと考えられる[2]。
辟雍の所在地については古来議論がある。後漢の鄭玄は『駁五経異義』で、それは都の西の郊外にあり明堂・宗廟とは全く別物であると主張し、魏晋時代の袁準はこの意見を支持している。これに対し後漢の蔡邕は『明堂月令論』に『大戴礼記』正徳篇にある「取其正室之貌,則曰太廟。取其堂,則曰明堂。取其四門之學,則曰太學。取其水周圓璧,則曰辟廱。」という記載を引いて、名は異なるが明堂・宗廟を指していると主張し、この意見は盧植や穎子容が支持していた。孫詒譲は宋の鄭鍔のいう「辟雍とは水を周りにめぐらした土地の中央にあった学校を呼び、周の制度では辟雍の南に置いていたものを成均と呼び、有虞氏や虞氏の制度では北に置いたものを上庠とし、夏の制度では東に置いたものを東序とし、殷の制度では西に置いたものを瞽宗とした」という説を引き、それらの学校を五学(太学)といい、辟雍はもっとも尊ばれていると考えた[3]。また蔡邕はその著の『独断』に「天子曰辟雍、謂流水四面如璧、以節観者、諸侯曰頖宮、頖言半也、義亦如上」と述べ、辟雍とは天子の学校で池を丸く掘って中央に堂を造ったもので、これは射る時に見物人が押し寄せないようにするためだ、頖宮とは諸侯のための学校で池を半月の形に掘り、その内側に堂を建てたもので辟雍を半分にしたものだ、と説明している。この説はにわかに信じられない、と伊藤東涯は判断した[4]。
辟雍は周の王制では饗礼・射礼・養老礼などの儀式をおこなう場所であり、教化のための施設であった。漢では武帝が太学と辟雍を設けたとされ[5]、それ以後は歴代の王朝が踏襲した。
脚注
- ^ 小沼丹『珈琲挽き』講談社文芸文庫、2014年、P.211頁。
- ^ 池内宏、他監修『縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻』臨川書店、1992年、P.497頁。
- ^ 池内宏、他監修『縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻』臨川書店、1992年、P.497頁。
- ^ 伊藤東涯『制度通・下』岩波文庫、1991年、P.202頁。
- ^ 池内宏、他監修『縮刷版 東洋歴史大辞典・下巻』臨川書店、1992年、P.497頁。