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宋の正員郎の檀道彪の子として生まれた。若くして文学を好み、気儘なふるまいが多かった。宋の[[南徐州]]西曹を初任とした。南徐州別駕の[[蕭恵開]]と仕事をしたが、下手に出ず対等につきあった。秀才に挙げられた。[[孝建 (南朝宋)|孝建]]初年、事件に連座して梁州に左遷され、宣威府参軍となった。[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]は檀超の文才を聞いて[[建康 (都城)|建康]]に召還し、東宮に宿直するよう命じた。檀超は驃騎参軍・寧蛮主簿に任じられ、鎮北諮議に転じた。外藩の補佐役を歴任し、尚書度支郎・車騎功曹・[[桂陽郡]]内史に転じた。入朝して殿中郎となり、中書郎を兼ねた。[[零陵郡]]内史となり、征北驃騎記室に転じた。国子博士となり、左丞を兼ねた。檀超は酒を嗜んで、朗詠を好み、[[晋 (王朝)|晋]]の[[チ超|郗超]]と比較されて高平の「二超」と称された。[[蕭道成]]に仕えて、驍騎将軍・常侍・司徒右長史となった。
宋の正員郎の檀道彪の子として生まれた。若くして文学を好み、気儘なふるまいが多かった。宋の[[南徐州]]西曹を初任とした。南徐州別駕の[[蕭恵開]]と仕事をしたが、下手に出ず対等につきあった。秀才に挙げられた。[[孝建 (南朝宋)|孝建]]初年、事件に連座して梁州に左遷され、宣威府参軍となった。[[孝武帝 (南朝宋)|孝武帝]]は檀超の文才を聞いて[[建康 (都城)|建康]]に召還し、東宮に宿直するよう命じた。檀超は驃騎参軍・寧蛮主簿に任じられ、鎮北諮議に転じた。外藩の補佐役を歴任し、尚書度支郎・車騎功曹・[[桂陽郡]]内史に転じた。入朝して殿中郎となり、中書郎を兼ねた。[[零陵郡]]内史となり、征北驃騎記室に転じた。国子博士となり、左丞を兼ねた。檀超は酒を嗜んで、朗詠を好み、[[晋 (王朝)|晋]]の[[チ超|郗超]]と比較されて高平の「二超」と称された。[[蕭道成]]に仕えて、驍騎将軍・常侍・司徒右長史となった。


[[480年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]2年)、斉にはじめて史官が置かれると、檀超は[[江淹]]とともに史官を統轄した。『[[漢書]]』にならって律暦・礼楽・天文・五行・郊祀・刑法・芸文の志を立て、[[蔡ヨウ|蔡邕]]や[[司馬彪]]にならって朝会・輿服の志を立て、[[徐爰]]にならって州郡志を立てることとした。日食を五行志に記載する通例を改めて、天文志に記載させることとした。また処士伝や列女伝を立てることとした。国史の編纂事業が端緒につかないうちに、在官のまま死去した。江淹が事業を引き継いだが、国史は完成しなかった。
[[480年]]([[建元 (南朝斉)|建元]]2年)、斉にはじめて史官が置かれると、檀超は[[江淹]]とともに史官を統轄した。『[[漢書]]』にならって律暦・礼楽・天文・五行・郊祀・刑法・芸文の志を立て、[[蔡邕]]や[[司馬彪]]にならって朝会・輿服の志を立て、[[徐爰]]にならって州郡志を立てることとした。日食を五行志に記載する通例を改めて、天文志に記載させることとした。また処士伝や列女伝を立てることとした。国史の編纂事業が端緒につかないうちに、在官のまま死去した。江淹が事業を引き継いだが、国史は完成しなかった。


== 伝記資料 ==
== 伝記資料 ==

2020年8月17日 (月) 07:39時点における版

檀 超(たん ちょう、生没年不詳)は、南朝宋からにかけての文学者官僚は悦祖。本貫高平郡金郷県

経歴

宋の正員郎の檀道彪の子として生まれた。若くして文学を好み、気儘なふるまいが多かった。宋の南徐州西曹を初任とした。南徐州別駕の蕭恵開と仕事をしたが、下手に出ず対等につきあった。秀才に挙げられた。孝建初年、事件に連座して梁州に左遷され、宣威府参軍となった。孝武帝は檀超の文才を聞いて建康に召還し、東宮に宿直するよう命じた。檀超は驃騎参軍・寧蛮主簿に任じられ、鎮北諮議に転じた。外藩の補佐役を歴任し、尚書度支郎・車騎功曹・桂陽郡内史に転じた。入朝して殿中郎となり、中書郎を兼ねた。零陵郡内史となり、征北驃騎記室に転じた。国子博士となり、左丞を兼ねた。檀超は酒を嗜んで、朗詠を好み、郗超と比較されて高平の「二超」と称された。蕭道成に仕えて、驍騎将軍・常侍・司徒右長史となった。

480年建元2年)、斉にはじめて史官が置かれると、檀超は江淹とともに史官を統轄した。『漢書』にならって律暦・礼楽・天文・五行・郊祀・刑法・芸文の志を立て、蔡邕司馬彪にならって朝会・輿服の志を立て、徐爰にならって州郡志を立てることとした。日食を五行志に記載する通例を改めて、天文志に記載させることとした。また処士伝や列女伝を立てることとした。国史の編纂事業が端緒につかないうちに、在官のまま死去した。江淹が事業を引き継いだが、国史は完成しなかった。

伝記資料